小諸城 | 日本の城写真集

小諸城 | 日本の城写真集

小諸城

信濃国長野県 / 収録写真枚数:109枚

  • 小諸城 大手門を外側から
  • 小諸城 大手門を内側から
  • 小諸城 三の門
  • 小諸城 二の門跡
  • 小諸城 二の丸
  • 小諸城 北の丸
  • 小諸城 南の丸
  • 小諸城 黒門跡
  • 小諸城 本丸
  • 小諸城 天守台
  • 小諸城 帯曲輪
  • 小諸城 馬場
  • 小諸城 水の手展望台
  • 小諸城 武器庫
  • 小諸城 地獄谷
  • 小諸城 移築城門(光岳寺山門)
  • 小諸城 移築城門(正眼院山門)
小諸城の写真撮影スポット紹介

【城の歴史】
小諸城の始まりははっきりしないが、長享元年(1487)に当地の豪族・大井氏が築いたとも伝わる。戦国時代には甲斐から侵入してきた武田信玄に攻略されたが、佐久地方で最も長く抵抗したのがこの小諸城であり、信玄も力攻めを諦め和議により降伏したと言われる。その後、降伏した大井氏や、武田信玄の武将・山本勘助と馬場信房によって城普請がなされたと伝えられる。武田家の最後の城主は武田信豊(信玄の甥・勝頼の従弟)で、二の丸で最期を遂げたと言う。武田氏滅亡後は織田氏、北条氏、徳川氏と支配者が変わり、小田原の役後に仙石秀久氏が城主となった。仙石氏は関ヶ原合戦ごも転封されず元和八年(1622)まで城主であり、その後松平氏、青山氏、酒井氏、西尾氏を経たのち、元禄15年(1702)に牧野氏が入ると明治維新まで続いた。

【城の立地】
小諸城は北国街道に面し、東はすぐに関東であり、当地の豪族・大井氏は上野の関東管領・上杉氏と連携し、永らく武田信玄に対抗したと言われる。また豊臣秀吉は関東に徳川家康を転封させるとすぐ隣の小諸城に子飼いの仙石秀久を城主とし家康の抑えにしたという。一方、西に向かえば上田があり、関ヶ原合戦などでは江戸から徳川軍が小諸に入り、上田の真田氏を攻める拠点とした。

【城の見どころ:普請(土木工事)編】
通常本丸が最高部にあるが、この城は本丸に向かうほど標高が低くなってくるため、穴城と呼ばれる。とはいえ、城内の縄張りは侵入してきた敵を常に頭上から攻撃できるようになっている。
また、川から伸びる谷に隔てられた土地に築城されており、その高さは20mを超える天険の地を占めている。さらに本丸前には巨大な空堀を人力で掘っている点も特筆される。
城内にはふんだんに石垣が見られ、本丸・天守台に野面積み石垣や初期の算木積みが特徴の比較的古い時代の石垣である。現在見れれる城の姿は、天正19年(1591)に仙石秀久が入城して以降に造られた。

【城の見どころ:作事(建築)編】
現在の小諸城から線路を隔てて反対側に大手門が残る。大手門は仙石氏が国指定重要文化財に指定されており、仙石秀久が小諸城城主であった慶長17年(1612)頃の建築。明治維新後、改装し使用されていたが平成20年に復元されたが、この際に明治後に改装された箇所を、享保五年(1720)の修理記録などに従い往時の姿に戻された。
また三の門も重要文化財であり、明和二年(1765)に再建されたものである。

【主な参考文献等】
現地看板
ライブストリーミング 千田先生と行く!日本最強で不滅の城ライブvol.4 小諸城 2022/5/29
書籍 中澤克昭・河西克造編集 『甲信越の名城を歩く 長野編』 吉川弘文館 2017/12/21
書籍 加藤理文・橋場日月著 『「決定版」図説 よみがえる名城 漆黒の要塞 豊臣の城』 学習研究社 2008/5/1

日本百名城。小諸城は武田信玄の命により、山本勘助と馬場信房によって城の縄張りがされたと伝えられる。その後仙石氏が城主の時代に現在の城の形となった。小諸城は市街地よりも低いところに位置するため「穴城」と呼ばれている。

(2007/10/25 作成、2014/11/12 更新、2022/6/5 更新)

小諸城の写真撮影スポット

当サイト管理人(けいすけ)が全写真を撮影。小諸城の人気の撮影スポットをご紹介します。

小諸城付近の地図

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