日本の城写真集

日本の城写真集

米子城

(伯耆国/鳥取県)

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見どころ紹介

米子城は伯耆の大名・山名氏が築いた城である。大永4年(1524)には尼子氏が城を落とし、伯耆は尼子氏が支配した。その後毛利氏が勢力を伸ばすと米子城も毛利氏に属し、毛利氏家臣の吉川元春・広家らが当地を支配した。
関ヶ原合戦で西軍の毛利氏が敗北すると、東軍の中村一忠が伯耆国十八万石を領し米子城に入り、慶長七年(1602)に城は完成した。城には天守が2つ(天守と四重櫓の副天守)が上がっていたと言う。
慶長14年(1609)には中村一忠は死去し、代わって加藤貞泰が入り、元和3年(1617年)には貞泰が大洲へ転封となり、米子は姫路から転封された鳥取藩・池田光政の支配下に入った。米子城主は池田光政の筆頭家老・池田由之、次いで子の由成が務めた。光政は寛永九年(1632)に再度姫路へ転ずると、鳥取藩は池田光仲が藩主となり、米子城主には家臣の荒尾氏が任じられた。
現在城跡には昭和五十七年から五十九年に復元された石垣が残るだけだが、その石垣は非常に大規模で見ごたえがある。

旧伯耆国・鳥取県米子市にある城。伯耆の戦国大名・山名氏が築いた城で、尼子氏、次いで毛利氏が城を支配した。関ヶ原合戦で西軍の毛利氏が敗北すると、東軍の中村一忠が伯耆国十八万石を領し米子城に入り、慶長七年(1602)に城は完成した。城には天守が2つ(天守と四重櫓の副天守)が上がっていたと言う。

(2007/5/1 作成、2013/10/12 更新)

公式動画チャンネル

見どころ

枡形門跡

枡形門跡

米子城山麓に残る二の丸表門・枡形門跡の石垣。非常に規模の大きな門があったことがわかる。

旧小原家長屋門

旧小原家長屋門

米子城主・荒尾家の家臣・小原家の長屋門。江戸時代中期の建築で、市内にあったものが移築されている。

裏御門跡

裏御門跡

二の丸の裏門。門脇の櫓には太鼓が設けられ、城下に時や非常事態を告げる太鼓が打たれた。

内膳丸(下段)

内膳丸(下段)

内膳丸は中村家家老の横田内膳正村詮が築城したことから名が付いた。

内膳丸(上段)

内膳丸(上段)

往時は二重櫓が何棟か建てられていたと言う。

番所跡

番所跡

その名の通り本丸を警備するための武士が詰める番所があった。写真は番所跡右手のようす。石垣が何段にも重なり壮観。

本丸南側虎口

本丸南側虎口

本丸南側虎口へ至る山麓からの道

鉄御門跡

鉄御門跡

本丸への虎口の一つで、鉄張りの門が設けられていた。

副天守台跡

副天守台跡

米子城には天守が二つあり、そのうちの一つはこの副天守台石垣上に建っていた。

天守台跡

天守台跡

米子城には天守が二つあったが、主天守はこの石垣上に上がっていた

本丸水手御門側虎口

本丸水手御門側虎口

本丸から水手御門跡へ

水手御門跡

水手御門跡

水手御門跡を外側から

遠見櫓跡

遠見櫓跡

着見櫓跡とも呼ばれる。

本丸

本丸

水手御門跡付近から。犬走が見える

本丸からの眺め

本丸からの眺め

城内を見下ろす

移築城門(感応寺山門)

移築城門(感応寺山門)

米子城付近の地図

米子城が載っている本

よみがえる日本の城

Discover Japan 2013年6月号

図説江戸三百藩「城と陣屋」総覧―決定版 (西国編)

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