掛川城 二の丸御殿 | 日本の城写真集

掛川城 二の丸御殿 | 日本の城写真集

  • 掛川城 二の丸御殿 二の丸御殿入口。二の丸御殿は全国でも数少ない現存御殿である。玄関の屋根から蕪懸魚と呼ばれる装飾が下り、水分の多い蕪に火除けの意を掛けた。屋根には波型をあしらった鬼瓦が乗る。壁には蟇股がつけられている。
  • 掛川城 二の丸御殿 二の丸御殿と天守
  • 掛川城 二の丸御殿 二の丸御殿玄関。寛永七年(1854)の大地震で御殿が倒壊したため、安政二年(1855)から文久元年(1861)にかけて建築されたのが現在の御殿。明治維新後は学校や市庁舎として用いられたが、昭和47年から50年にかけて保存修理が行われた。
  • 掛川城 二の丸御殿 二の丸御殿玄関。ここは、藩主もしくは城代家老しか使わない格式の高い玄関である。建物屋根の千鳥破風の反った曲線と、逆に玄関の逆の曲線が対照的。
  • 掛川城 二の丸御殿 二の丸御殿の側面。御殿は藩政を執り行う場と、藩主の住居という2つの側面を持つ建物。書院造と呼ばれる建築様式である。
  • 掛川城 二の丸御殿 二の丸御殿勝手台所
  • 掛川城 二の丸御殿 御殿の裏側。家老や来客はここから御殿に入った。中級・下級武士にはそれぞれまた別の玄関があった。
  • 掛川城 二の丸御殿 二の丸御殿背後の土塁。黒土塁と呼ばれ、御殿を外部から隠す目的であったと言う。
  • 掛川城 二の丸御殿 二の丸御殿を見下ろす
掛川城写真撮影スポット紹介

数少ない現存御殿。寛永七年(1854)の大地震で御殿が倒壊したため、安政二年(1855)から文久元年(1861)にかけて建築されたのが現在の御殿。全国でも数少ない現存御殿である。

写真

二の丸御殿入口。二の丸御殿は全国でも数少ない現存御殿である。玄関の屋根から蕪懸魚と呼ばれる装飾が下り、水分の多い蕪に火除けの意を掛けた。屋根には波型をあしらった鬼瓦が乗る。壁には蟇股がつけられている。

二の丸御殿入口。二の丸御殿は全国でも数少ない現存御殿である。玄関の屋根から蕪懸魚と呼ばれる装飾が下り、水分の多い蕪に火除けの意を掛けた。屋根には波型をあしらった鬼瓦が乗る。壁には蟇股がつけられている。

二の丸御殿と天守

二の丸御殿と天守

二の丸御殿玄関。寛永七年(1854)の大地震で御殿が倒壊したため、安政二年(1855)から文久元年(1861)にかけて建築されたのが現在の御殿。明治維新後は学校や市庁舎として用いられたが、昭和47年から50年にかけて保存修理が行われた。

二の丸御殿玄関。寛永七年(1854)の大地震で御殿が倒壊したため、安政二年(1855)から文久元年(1861)にかけて建築されたのが現在の御殿。明治維新後は学校や市庁舎として用いられたが、昭和47年から50年にかけて保存修理が行われた。

二の丸御殿玄関。ここは、藩主もしくは城代家老しか使わない格式の高い玄関である。建物屋根の千鳥破風の反った曲線と、逆に玄関の逆の曲線が対照的。

二の丸御殿玄関。ここは、藩主もしくは城代家老しか使わない格式の高い玄関である。建物屋根の千鳥破風の反った曲線と、逆に玄関の逆の曲線が対照的。

二の丸御殿の側面。御殿は藩政を執り行う場と、藩主の住居という2つの側面を持つ建物。書院造と呼ばれる建築様式である。

二の丸御殿の側面。御殿は藩政を執り行う場と、藩主の住居という2つの側面を持つ建物。書院造と呼ばれる建築様式である。

二の丸御殿勝手台所

二の丸御殿勝手台所

御殿の裏側。家老や来客はここから御殿に入った。中級・下級武士にはそれぞれまた別の玄関があった。

御殿の裏側。家老や来客はここから御殿に入った。中級・下級武士にはそれぞれまた別の玄関があった。

二の丸御殿背後の土塁。黒土塁と呼ばれ、御殿を外部から隠す目的であったと言う。

二の丸御殿背後の土塁。黒土塁と呼ばれ、御殿を外部から隠す目的であったと言う。

二の丸御殿を見下ろす

二の丸御殿を見下ろす

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