常盤木門を抜けると本丸に入り、天守が見える。本丸には天守と将軍のための本丸御殿があった。本丸御殿は寛永11年(1633)に三代将軍家光が上洛する際に建てられ、元禄16年(1703)の地震で焼失してしまい、それ以降再建はされていない。
現在の天守は昭和35年(1960)に復興されたもの。当時の市民が瓦一枚100円で寄付をして瓦の裏に名前を墨書する瓦一枚運動により建てられた、市民の思いの詰まった天守である。宝永3年(1706)に再建された天守をモデルとした。ただし宝永の天守には最上階の廻縁は存在しなかったが、昭和の復興時に天守からの眺めを重視し設けられた。
天守台石垣は二段構造になっている。敢えて二段構造になっているのは、多発する地震に対する耐久度をより上げようとする工夫か。しかし関東大震災で崩れて昭和25年から築きなおされた。
戦国期の小田原城に天守があったかどうかは分からない。江戸時代に入り初代の望楼型天守が建てられたものが寛永10年(1633)の地震で倒壊、翌年の将軍家光上洛までに望楼型の二代天守が建てられ家光も天守に登り、その天守も元禄16年(1703)の地震で倒壊したが、宝永3年(1706)に三度再建された。その天守も明治三年に解体され、天守のあった場所には神社や観覧車などがあったのち、現在の天守が建てられた。
天守の入口。天守に入るには天守外に設けられた長い階段を登る必要があるが、往時もこのような造りになっていた。天守には付櫓から入る事が多く、このような天守外の階段は珍しい。
天守を裏側から見る。大きな天守で、全国で7番目の高さだとのこと。
天守からの眺め。豊臣秀吉が築いた石垣山城はこの方向。一夜城の逸話があるが、さすがに一晩で総石垣の城を造ることができなかったが、約1ヵ月超で石垣が積み終わったとのことで、相当な早さで城が築かれたので籠城している北条方は大変驚いたことだろう。
天守からの眺め
本丸内の石垣
八幡山古郭東曲輪から見る天守。天明2年(1782)の天明地震の際には天守が30度も傾いてしまい、天守に大縄をかけて八幡山に櫓を建てて引き起こされたことがあった。
八幡山古郭東曲輪から見る天守