毛利元就の三男で毛利家の重臣である吉川元春が隠居所として築いた館である。吉川氏はもともと安芸国北西部に勢力を持つ豪族であったが、一族内の内紛などを経て天文16年(1547)に毛利家から元春を養子に迎え入れ吉川家の当主とし、吉川家は毛利家の傘下に入った。その元春は天正10年(1582)に隠居し、この館を建て隠居所とした。館が未完であった天正14年に元春は死去、跡を継いだ長男の元長も翌天正15年に死去、元春の三男・広家が跡を継いだ。広家は天正19年(1591)に月山富田城城主となると、館は役割を終えたものと思われる。
正面の石垣の石垣の積み方は独特で、大きな立石を間隔を空けて置き、その間を平積みの石垣で埋めている。宮島の石垣も同じような工法とのことで、当地独特の技術と思われる。また発掘調査により、庭園や建物跡が見つかった。現在はその一部分が往時の姿に復元され、在りし日の館の様子を知ることができる。
毛利元就の三男で毛利家の重臣である吉川元春が隠居所として築いた館。正面の石垣の石垣の積み方は独特で、大きな立石を間隔を空けて置き、その間を平積みの石垣で埋めている。また発掘調査により、庭園や建物跡が見つかった。現在はその一部分が往時の姿に復元され、在りし日の館の様子を知ることができる。
(2013/11/10 作成)