日本百名城。龍城とも呼ばれ、菅生川(現在は乙川)沿いの台地に築かれた城である。15世紀中頃に西郷頼嗣が築いたのが始まりで、のちに徳川家康の祖父・松平清康が西郷氏を倒し入城し、改修を行った。松平家は以降岡崎城を本拠とした。
城の始まりははっきりしないが、徳川家康の支配下であった事は判明している。家康の関東移封に伴い、岡崎城の田中吉政の支配下に入った。関ヶ原合戦後は本多康俊が城主となった。以降江戸時代は西尾藩の藩庁となり、幕末に至り廃城された。
もとは今橋城と呼ばれ、永正2年(1505)に牧野古白が築いた。城の背後には豊川が流れ、朝倉川が合流している。天文15年(1546)に今川氏が城を落として以降は今川氏の支配下に入るが、永禄8年(1565)以降は徳川家康が支配した。
文明12年頃に戸田宗光によって築かれた城である。天文16年に戸田氏は松平氏から今川氏への人質(徳川家康)を護送する任を請け負うが、今川氏を裏切り人質を尾張の織田氏に送り、今川氏の怒りを買い攻撃を受けて落城、吉田城を追われた。
代々大給松平氏の居城で、松平宗家のちに徳川家に仕えた。徳川家康の関東移封に従い、大給城は廃城となった。九久平を見下ろす山城で、九久平には巴川が流れ、足助街道と新城街道が交わる交通の要衝に位置した。この城の特徴は城内に巨石が多数存在することである。巨石を利用した防御構造を用い、迫力もある。また城の北側には水の手があり、石垣により防御されている。
文亀二年(1502)に鈴木親信が築いたのが城の始まりで、以降天正18年(1590)まで鈴木家の居城であった。鈴木家は徳川家康の家臣として活躍し、天正11年(1583)に加増された際に城を拡張したと言われている。城には石垣が用いられていることが特徴で、また城の北西側には竪堀が連続する畝状竪堀が見られる。
足助城は足助の街を見下ろす真弓山の山上に築かれた城である。築城したのは西三河の山間部に勢力を張っていた鈴木氏と言われる。鈴木氏は三河の松平氏、駿河の今川氏、甲斐の武田氏から度々侵略されるが、最終的には徳川家康の家臣となった。
田峯菅沼氏の本拠城で、寒狭川を見下ろす台地上に位置する。定忠の代には甲斐の武田氏に従っていたが、長篠の合戦で敗れ、その間に一族が裏切り城を占拠した。定忠は武田氏滅亡時に討ち死にし、菅沼家は断絶、田峯城も廃城された。
日本百名城。長篠城は寒狭川と宇連川の合流地点に築かれた城。今川義元の死後は徳川家康の支配下にあった。天正3年には武田氏に城を包囲され、徳川・織田の連合軍が長篠城救援へ向かい、武田軍と衝突したのが長篠の戦いである。
豊川と伊那街道沿いに築かれ、代々菅沼氏が城主を務めた。武田信玄率いる大軍の攻撃を受けたが1か月程粘った守りの固い城。現在も武田軍の猛攻を支えた本丸・二の丸の曲輪・空堀などの痕跡が残るところが見どころ。武田軍が金堀衆に穴を掘らせて井戸の水を抜いて落城させた、信玄が銃で狙撃された、などの逸話も残る。
日本三名城、日本百名城。天守は1957年に外観復元された。徳川家康が慶長15年(1610)から西国大名を動員した天下普請で築城を開始し、同17年に完成。家康の九男・義直の居城となり、江戸時代を通じて尾張藩の居城として栄えた。
尾張国守護所でのちに織田信長が攻略し本拠とした。本能寺の変後は次男・信雄、豊臣秀次、福島正則が城主となった。正則が関ヶ原合戦後に転封されると、家康の四男・忠吉、九男・義直が入った。その後名古屋城が築城され、清洲城は廃城となった。
織田信長が永禄6年(1563)に美濃攻略の拠点として築いた城。永禄10年(1567)には美濃を制圧し岐阜に本拠を移した。その後天正12年(1584)に秀吉・家康は尾張国内で軍事衝突し、家康軍が廃城跡であった小牧山に布陣した。
国宝、天守の現存する城。日本百名城。天文6年(1537)に織田信康が築いた。信康の子の信清は信長と敵対し落城、のちに池田恒興が城主となった。小牧・長久手の戦い、関ヶ原の戦いの舞台となり、江戸時代には成瀬氏が代々城主をつとめた。