佐野市の北側の山に築かれた山城で、北条氏や上杉氏の軍を何度も撃退した。関東平野一円を見渡せる眺望が特徴。江戸で発生した火災を唐沢山城から見た城主は江戸に駆けつけたが、江戸を見下ろす場所に城を構えている事を咎められたという逸話が残る。
大関高増が天正4年(1576)に築いた城で、那珂川と松葉川に挟まれた台地上に位置する。大関氏は那須氏の家臣であったが、天正18年(1590)の豊臣秀吉による北条氏討伐の際に秀吉に帰順することで領地を維持した。その後も黒羽城は大関氏の本拠城として幕末までその役割を果たし続けた。明治維新により廃城となったが、現在でも巨大な堀と土塁を中心に遺構が残る。
天文14年(1545)に大田原資清によって築かれた城。大田原氏は那須氏の家臣であったが、豊臣秀吉に帰順することで領地を保った。関ヶ原合戦の際には徳川家康の支援も受けて城の修築が行われた。大田原氏は江戸時代を通じて大田原藩藩主を務めた。城は蛇尾川沿いの丘陵に築かれている。現在は公園として整備されており、特に本丸の周囲を囲む土塁が素晴らしい。
塩谷氏の本拠城で鎌倉幕府の御家人である塩谷朝業が築城したものと伝わる。塩谷氏は以降城主を務め戦国の世を生き抜いたが、文禄四年に突如改易となり、川崎城も廃城となった。宮川沿いの丘陵に築かれた城で、川に面した側は断崖となっている。城内の曲輪は深い堀で区切られている。現在でも整備は行き届き、特に本丸の周りをめぐる大きな空堀が見どころである。
佐野の地には昔から唐沢山城があったが、江戸時代に入り城主の佐野信吉が平地に築城したのが佐野城である。慶長12年(1607)に唐沢山城から佐野城に居を移したが、同19年(1614)に佐野氏は改易となり佐野城も廃城された。城は四つの曲輪からなり、曲輪の間は空堀で仕切られている。現在は城山公園として整備されて、三の丸は佐野駅に直結している。
会津の豪族であった長沼秀宗によって15世紀中頃に築かれた城。城は山城部分と山麓の居館に分かれる。山城部分は比高80mの山全体を覆うように何段もの帯曲輪・腰曲輪が設られ、その見た目から法螺貝城とも呼ばれている。また規模の大きい竪堀が見られるのも特徴である。居館は土塁で囲まれ、今でも一部の土塁が残る。
城のはじまりは平安時代まで遡ると言われ、安土桃山時代まで宇都宮氏が城主であった。江戸時代には本多正純が城主となったが、二代将軍秀忠の暗殺疑惑(宇都宮城釣天井事件)により改易された。幕末の戊辰戦争では宇都宮城は激戦の舞台となった。
鎌倉時代の後半に宇都宮家家臣・芳賀高俊により築かれたと伝えられ、その後代々芳賀氏の居城であった。慶長2年(1597)に豊臣秀吉の命により廃城となった。城は東と南側を二重の堀で、西と北側を鬼怒川によって守られている。
別名臥牛城と呼ばれ、那須与一の子孫である沢村五郎資重が応永25年(1417)に築城したと伝えられる。戦国時代は戦国大名・那須氏の本拠地であった。三の丸は万治2年(1659)に城主・堀親昌により拡張されたものである。
応永~寛政年間(1460~65)頃に築かれた城。思川の東岸の崖上に位置し、各曲輪は深い堀で隔てられている。祇園城とも呼ばれるが、これは城の守り神として祇園社を祀ったことに由来する。築城したのは小山泰朝で、その後小山持政が城を拡張したと思われる。戦国時代には北条氏の攻撃を受け落城し、北条氏領の北端の拠点となった。
壬生綱重によって築かれたのが始まりと言われる。壬生氏は豊臣秀吉による北条氏討伐の際に北条氏側に付いたため改易された。その後当地は徳川家康の子・結城秀康の領地となった。江戸時代に入ると日根野氏などが藩主となり、鳥居氏が藩主となると幕末まで続いた。壬生城は江戸から日光へ向かう途上にあり、本丸には御殿が設けられ将軍の宿泊所として使われた。
児山城は姿川東岸の丘陵に築かれた城で、現在でも方形の主郭を囲む空堀と土塁を中心に遺構が残る。鎌倉時代後半(13世紀後半)に宇都宮頼綱の四男・多功宗朝が子の朝定を統治に封じ築かせたのが始まりと伝えられる。以降、朝定の子孫は児山氏を名乗り、多功氏の家臣として児山城主を務めた。