日本三名城、日本百名城。築城者は加藤清正で1607年に完成した。その石垣は上に行くほど反りがきつくなる構造で武者返しと呼ばれる。現在でも宇土櫓をはじめ13棟の建造物が現存する他、大小天守や本丸御殿など多くの建物が再建された。
宇土城は、はじめは西岡台という台地上に11世紀ごろに築かれ、菊池氏の一族が城主を務めていた。天正十六年には豊臣秀吉の部下・小西行長が城主となり、西岡台から程近い場所に新たに城を築いた。慶長十七年に一国一城令により廃城となった。
天正16年に小西行長が海岸沿いに麦島城を築いたが、元和5年に大地震が発生し城が倒壊した。そこで肥後国の大名・加藤清正は改めて別の場所に築城を行い、元和8年に完成した。これが現在城跡の残る八代城である。
日本百名城。球磨川と胸川の合流地点付近に築かれた城。鎌倉時代に相良長頼が入城し、相良氏の居城として球磨地方の支配の拠点となった。やがて相良氏は戦国大名として成長し、江戸時代も球磨地方を治める大名として幕末まで存続した。
肥後を支配した加藤清正の支城。山上に見える石垣群が美しい。文禄元年(1592)には文禄の役の間に島津家家臣の梅北国兼に城を落とされるという梅北の乱の舞台になった。元和元年(1615)の一国一城令により廃城となった。
天草は関ヶ原合戦後に肥前唐津の寺沢広高の領地となり、支配の拠点となる城として富岡城が築かれた。寺沢家二代・堅高の代に島原の乱が発生し、一揆軍の攻撃を受けるが落城しなかった。乱の収束後、山崎家治が封じられ領内を立て直した。
当地を支配した阿蘇家の城。天文年間(1532~1555)に築かれたと言われる。元和元年(1615)の一国一城令で廃城になったと伝わる。その後、細川家の時代には城跡に内牧手永会所(代官所)と参勤交代時の宿泊所・内牧御茶屋が設けられた。城は黒川と古川に挟まれた平地に築かれ、現在は古川沿いの公園に城跡の面影が残る。