安房の戦国大名・里見義頼が天正8年に築いた城で、のちに里見氏の本拠城となった。里見氏は忠義の代の時に大久保長安事件に連座し減封の上転封された。忠義は転封先で死去し、里見八犬伝はこの時殉死した家臣をモデルとして作られたと言われる。
久留里城は真里谷氏が支配していたが里見義堯の侵攻を許し真里谷氏は滅亡した。義堯は本拠を久留里城に移し、房総半島制圧のための拠点とした。天正18年には関東に封じられた徳川家康の家臣・大須賀忠政、関ヶ原合戦後には土屋忠直が入った。
戦国時代には上総武田氏の支配下にあったが、天文年間に安房の里見氏に征服され、重臣の正木氏が城主に任じられた。天正18年(1590)の豊臣秀吉による関東征伐後には、関東に封じられた徳川家康の城となり、本多忠勝が城主となった。
利根川と江戸川の分岐点という要衝に位置し、水運や軍事の拠点として機能した城。城の始まりは康正3年に古河公方の家臣・簗田満助が築いたものと言われる。家康の関東転封後は松平康元が封じられ、以降関宿城には江戸幕府の重臣が城主を務めた。
日本百名城。北条氏が豊臣秀吉によって滅ぼされると、佐倉には徳川家康の五男・信吉、六男・忠輝、のちに土井利勝が入った。現在の佐倉城を築いたのはこの土井利勝で、慶長15年に築城された。城は江戸の東に位置し重要な防御の役割を果たした。
本佐倉城は文明年間(1469~1486)に千葉輔胤によって築かれた城である。千葉家は下総国に勢力を張り、この本佐倉城を本拠地とした。城は印旛沼の近くにあり、印旛沼と城との間は湿地などに囲まれ、難攻不落を誇ったものと思われる。現在城は整備された上に、分かりやすい解説版も設けられ、見学しやすいよう工夫されている。
臼井城は千葉氏の一族・臼井氏によって築かれた城で、時期は14世紀中ごろと思われる。戦国時代には臼井氏は没落し原氏が城主となった。永禄9年(1566)には上杉謙信の軍に城を攻撃されるが、籠城軍側が勝利を収めた。上杉謙信の戦歴の中で数少ない敗戦の1つである。
師戸城は印旛沼の対岸にある臼井城の支城として築かれた城である。臼井城と師戸城の間は「渡」で連絡が結ばれていた。築城時期は14世紀で、現在の形となったのは16世紀中ごろと思われている。師戸城は臼井城と同じく、豊臣秀吉による関東征伐の際に落城し、廃城されたと思われる。