天文12年に神保長職が築城したのが始まりと言われる。慶長10年に前田利長は隠居し富山城を隠居城としたが、火災で焼失し高岡城に居城を移した。寛永16年に富山藩が設立され、万治4年から城が再築された。
日本百名城。慶長10年に前田家当主の利長は隠居し、子の利常に家督を譲った。利長は富山城を隠居城としたが、慶長14年に富山城が火災で焼失し、新たに高岡に築城した。しかし築城後間もない元和元年に一国一城令が発布され、廃城となった。
和田川沿いの山に築かれた山城。その規模の大きさから、増山城は松倉城、守山城と並び越中三大山城と称される。城主は越中国守護代の神保家が代々務めた。江戸時代の一国一条令により廃城になったと思われる。現在の増山城付近の和田川には和田ダムが建設され、ダム上に城が立つ格好になっている。
森寺城は往時は湯山城と呼ばれ、能登国との国境に近い阿尾川沿いの山地に築かれた城である。築城は能登国守護であった畠山義統によるもので、越中国進出の足掛かりとするために築いたと言われる。天正4年(1576)頃に越後の上杉謙信が攻略したが、謙信死後の天正7年(1579)に織田信長に属する守山城の神保氏張によって落城した。
富山湾に面した独立丘陵に築かれた城。海から見ると、城は崖上に位置する。十六世紀末頃に肥後の守護・菊地家一族と伝わる菊地武勝が本拠とした。菊地家は織田信長の勢力が越中に及ぶとその支配下に入り、佐々成政、前田利家に従い、以降は前田家家臣となった。阿尾城は慶長年間の始めに廃城になった。
守山城は二上山に築かれた山城。室町時代末期には、越中国守護代・神保氏の支配するところとなった。のちに越後の上杉謙信が越中に侵攻すると守山城も攻撃を受け落城した。城は現在は公園として整備され、遺構は殆ど残っていない。しかし、越中平野や小矢部川を一望できる絶好の景観を誇る。
越中を東西に分ける呉羽丘陵の最も高い地点に築かれた山城。越後上杉氏が越中に勢力を伸ばすと加賀一向一揆との戦いの拠点として活用している。越中を支配した成政が秀吉に降伏すると、越中の西半は前田利家、東半は成政の支配するところとなり、白鳥城は利家方の城として成政領の監視に当たったとみられる。
天正13年(1585)に豊臣秀吉軍によって築かれた城で、井田川左岸に位置する平城。当時越中を治める佐々成政は秀吉と敵対したため、秀吉はその征伐のために越中に出陣し、呉羽丘陵上の白鳥城に本陣を置いたが、安田城はその支城の役割を果たした。現在城跡は整備され、城跡に隣接し資料館が建つ。
神通川沿いの崖上に位置する城。神通川沿いにある事から、飛騨から越中へ至る要衝を抑える城であった。代々城主を務めたのは斎藤家で、当地を支配していた豪族である。天正11年(1583)には佐々成政の攻撃を受け落城した。佐々成政が豊臣秀吉に敗れると、代わりに支配した前田利家の家臣が城主を務めたが、慶長年間に廃城となった。
越中東部・新川郡の山中に築かれた山城で、築城は南北朝時代の14世紀前半と思われる。背後には松倉金山を控え、その金山の管理・護衛の役も担っていた。戦国時代には越中守護代である椎名家が城主となり、神保家と越中国を二分した争いを繰り広げた。慶長年間に廃城になったと思われる。
寿永元年(1182)に京都を脱した北陸宮が居住し御所としたのが始まり。戦国時代には越中東部を支配した椎名家の城となり、その後、上杉家、佐々家、前田家と支配者を変え、江戸時代に廃城となった。城からは東は越後との境である親不知を望み、西は新川平野を一望の元とする。