日本百名城。当地には元々一向一揆の本拠地である尾山御坊があった。信長軍が尾山御坊を攻略し、賤ヶ岳の戦い後に前田利家が城主となり、能登・加賀・越中の100万石を治める大大名の拠点となった。城の向かいには大名庭園である兼六園がある。
加賀前田家の二代藩主・利常が自身の隠居後の城として拡張した城。当時は一国一城令が発令されていたが、例外として認められた。往時は川に浮かぶ8つの島を曲輪とし、各曲輪を橋で繋ぐ縄張りで、小松の浮城とも呼ばれた。
南北朝時代の建武2年(1335)に中先代の乱に登場するのが始まり。戦国時代には加賀一向一揆の拠点となるが、その後織田信長の支配下に入った。関ヶ原合戦時の城主・山口宗永は西軍についたが、東軍・前田利長に攻められ落城した。
手取川の上流、大日川との合流地点付近の山に築かれた城。加賀一向一揆の山内衆(白山麓門徒衆)の拠点であり、城主は鈴木出羽守が務めた。天正8年には織田信長が加賀一向一揆の平定を目論み、鳥越城は柴田勝家軍の攻撃を受け落城した。
日本百名城。能登国の大名・畠山氏の本拠城で、戦国時代の戦乱に備えて次第に拡張され、全国屈指の規模の山城に成長した。天正4年(1576)には上杉謙信の攻撃を受けた。城の堅固さを頼みに籠城したが、内応者があらわれ落城した。