日本百名城。築城は慶長2年で、築城者は福原直高である。福原氏にかわって竹中重利が入城し、4層の天守を築いた。天守はのちに火災により焼失した。現在は城の中心部のみが残り、2棟の櫓が現存する。また廊下橋等の建物が復元されている。
日本百名城。豊後国守護大友氏の配下・志賀氏が城主となり、戦国時代の天正十四年には薩摩の島津軍の猛攻を受けるが、城主の志賀親次は城を守り抜いた。現在も立派な石垣が残り、特に三の丸の高石垣は足場の悪い断崖に築かれており圧倒される。
豊臣秀吉の一族・木下延俊が慶長6年(1601)に築城した城。築城には妻の兄であり豊前国主・細川忠興の支援があり、三層の天守も存在していたと言われる。この城の別名は「暘谷城」と言うが、この名は中国の故事から引用された。
大友氏一族の木付氏四代頼直が応永元年に築いた城。別名を台山城、臥牛城と呼ばれる。天正十五年には薩摩島津軍の攻撃を受けたが十六代鎮直が撃退した。城の麓には今でも城下町の街並みが残り、江戸時代の街の雰囲気を味わうことができる。
永禄五年(1562)に大友宗麟が臼杵湾に浮かんでいた丹生島に築いた城である。宗麟はこの城を本拠とし、城下の港にはポルトガル等の外国からの船が着き、商人や宣教師などが多数訪れた国際都市であった。現在でも城下町の雰囲気が残る。
慶長6年にこの地に入った毛利高政によって築かれ、慶長9年に完成した。主郭部は海抜140mの山上に位置する山城で、三の丸は山麓にある。主郭部は本丸を中心に、西の丸・北の丸が翼のように広がることから「鶴屋城」との別名が名付けられた。
三方を切り立った岩壁に守られた山城。戦国時代には大友氏の支配下に入り、のちに豊臣秀吉により毛利高政が城主として入城した。江戸時代には伊予国から来島康親が封じられたが幕府から城持ちを許されず、角牟礼城は使用せずに麓に陣屋を構えた。
豊後国(大分県)最西部にある日田盆地に流れる庄手川と隈川が合流する付近の丘陵に築かれた城である。1594年に九州を支配下に置いた豊臣秀吉が当地に宮城豊盛を封じた際に築いたものである。城跡は現在亀山公園として整備されており、石垣造りの枡形が残る。
永山城は1601年に当地に封じられた小川光氏によって築かれた城である。当時は丸山城と呼ばれた。小川氏が改易されたのち、元和四年(1618)には石川忠総が当地に入り、永山城と改名した。その後貞享3年(1686)に廃城となるが、日田陣屋が設けられ天領支配が行われた。
三大水城。天正15年に黒田孝高が豊前国に封じられた際に築城された。北側は周防灘に面した海城であった。慶長5年には細川忠興が城主となり、慶長7年には居城を小倉へ移し中津城は支城となった。一国一城令が発布された後も例外として存続した。