日本百名城。もとは日の岳城と呼ばれ、松浦氏の第26代・鎮信(法印)が慶長4年に築いたのが始まり。その後、第29代・鎮信(天祥)が慶安4年頃から山鹿素行とともに城の縄張りを行い、享保3年に完成したのが、現在の平戸城である。
大村氏はもとは三城を本拠としていたが、19代喜前が慶長4年に大村城を築いた。以降、幕末まで大村藩の居城となった。隣国・肥後の加藤清正の助言を参考に城の改修が行われたと言う。城は大村湾に面し、船着場などの珍しい貴重な遺構が残る。
日本百名城。元々島原の地は日野江藩有馬氏の領地であったが、松倉重政が入封した時に築かれた城で、着工は元和四年(1616)である。島原の乱では城は一揆軍に城を包囲されるが、堅固な守りにより落城しなかった。明治維新により廃城となった。
戦国大名・有馬氏の八代・貴純が明応五年に築いたのが始まり。十四代の直純が転封となったあと、元和四年に一度は廃城された。島原の乱の際には一揆軍が籠城し、幕府軍が城を三ヶ月間包囲した末、遂に落城、乱は鎮圧された。
当地の水軍を束ねた松浦党の城で、築城されたのは平安時代と言われる。以降松浦党の拠点として戦国時代まで使われた。城は玄界灘から繋がる伊万里湾沿いの山上に位置し、眼下には湾内の様子が手に取るように見える。豊臣秀吉の命により、石垣を多用した改修が行われ、天守台も備える。
別名石田城。五島藩主である五島氏は元は江川城を居城としていたが、慶長19年に焼失し以降城を持たなかった。しかし幕末に至り外国からの脅威に備えるため、幕命により築かれたのが福江城である。嘉永2年に築城を開始し、文久3年に完成した。
寛文九年に築かれた対馬藩の居城。享禄元年に宗家第14代・義盛が城の礎を築き、その後第21代・義真が金石城を築いた。背後の山に築かれた清水山城は天正十九年に築かれた山城で、秀吉の朝鮮出兵時に大陸への中継地点として築かれた。