三木良頼・自綱によって築かれた城。三木氏は豊臣秀吉と敵対し、天正13年に秀吉の部下・金森長近の侵攻を受け落城した。長近が石垣を用いた城郭に改修したと思われる。しかし間もなく近隣に高山城を築き、松倉城は廃城となった。
もとは天神山城と呼ばれ、飛騨の守護代・多賀徳言が築いたのが始まりである。やがて豊臣秀吉の部下・金森長近が飛騨を支配し、天神山城の故地に高山城を築いた。元禄5年に幕府が飛騨国に眠る天然資源に目をつけ、幕府直轄領とした。
高山陣屋は日本で唯一現存する代官所である。元禄五年(1692)に江戸幕府は飛騨を幕府直轄領とし、その管理のために設けられたものである。代官は代々幕府から派遣され本陣屋に居住し、また政務を執り行った。明治維新後も建物は残っていたが、一部には陣屋を取り壊し拘置所が設けられた。は平成三年に発掘調査が行われ、その後文政13年の改修後の姿が復元された。
増島城は山国の飛騨には珍しい平城で、水堀と水堀に沿って築かれた石垣が特徴の城である。築城したのは羽柴秀吉の部下で飛騨を制した金森長近で、長近の養子・可重が増島城主となった。縄張りは秀吉の京都での居城・聚楽第と同じ形であった事が判明している。元和元年(1615)の一国一城令により古川旅館と名を改められた。飛騨が江戸幕府の天領となった後の元禄八年(1695)に破却され、現在は水堀と石垣が残る。
室町時代から戦国時代にかけて当地を治め、飛騨北部に勢力を伸ばした江馬氏の居館。平成12年から発掘調査に基づいた復元工事が行われ、平成21年に完成した。館跡には当時の材質と工法による御殿や門・塀などが建てられ、また室町時代の武家庭園が復元されたことが最大の見どころである。
神岡城は往時は東町城と呼ばれ、当地を支配した江馬氏の城であり、戦国時代には本拠を近隣の江馬氏館からここへ移したと言われる。また金森氏が飛騨に入ってからは出城の役を果たした。城は高原川沿いの高い段丘沿いに築かれ、背後が絶壁の天険である。現在は城の一帯が高原郷土館として整備され、昭和45年に模擬天守建築が建てられた。
帰雲城は飛騨国北西部の山中、庄川沿いに築かれた城である。天正13年(1585)に発生した天正の大地震により帰雲城の背後の帰雲山が大崩壊。これにより城と城下は土砂に埋没し、内ヶ島は滅亡してしまった。現在でも城がどこにあったのか特定されていない。
飛騨北西部、合掌造りの建物が並ぶ世界遺産・白川郷に隣接する台地上に築かれた城。帰雲城の内ヶ島氏の支配領域内であり、城主は内ヶ島氏家臣の山下氏が務めた。荻町城跡からの白川郷を一望のもとに収める眺めは絶景。現在でも主郭を隔てる堀切と土塁などがしっかり残っている。
牛屋河岸に建てられた平城。天正13年(1585)に豊臣秀吉は一柳直末を城主に任じ、この時天守が築かれた。関ヶ原合戦時には石田三成は大垣城に西軍の拠点を置いた。天守は明治維新後も残ったが、太平洋戦争時の空襲により焼失した。
日本百名城。もとは稲葉山城と呼ばれ、のちに織田信長により岐阜城と改められた。信長は岐阜城を拠点に全国に勢力を伸ばした。信長の孫・織田秀信が城主の時代に関ヶ原合戦が起こり、東軍の攻撃を受け落城し、これを最後に廃城となった。
三大山城、日本百名城。戦国時代には「女城主」などの逸話が残り、江戸時代は岩村藩藩庁となり大給松平家、丹羽家、のちに再度大給松平家と藩主が代わり幕末に至った。現在山城には石垣などが残り、藩主邸跡には太鼓櫓などが復元されている。
岩村城を本拠とする遠山家の支城。城脇には木曽川が流れ交通の要衝であった。一度は遠山氏に変わって森氏・河尻氏が城主となるが、関ヶ原合戦で河尻氏は西軍につき改易され遠山氏が復帰した。以降、江戸時代を通じて遠山氏が苗木城主をつとめた。
妻木城は美濃国東部にあった城。暦応二年(1339)に明智頼重が妻木を領した際に築城されたとも伝わる。戦国時代には妻木氏が領主となっていたが、織田信長・森可長・徳川家康らの配下となり戦国を生き抜いた。現在でも山麓に居館跡が、山上に詰めの城が残り、ともに石垣が使用されている。関ヶ原合戦頃までは山上の城が、その後は山麓の居館が用いられたと思われる。
多羅城(高木三家陣屋)は関ヶ原南方の牧田川西岸の台地に築かれた城。城の縄張りは、高木三家それぞれの陣屋が独立した曲輪を持つのが特徴。また、石垣が多用されており、特に最も大きい西高木家陣屋の正面の石垣は非常に立派である。現在は旗本高木三家陣屋跡として整備され、上石津郷土資料館などが建てられている上に、西高木家表門や東高木家の倉などが残る。
天正16年に竹中重門が構えた陣屋で、それまでは竹中氏は背後の山にある菩提山城を本拠としていた。竹中陣屋は岩手城とも呼ばれる。竹中重門は羽柴秀吉の軍師として有名な竹中半兵衛(重治)の子で、秀吉の部下となり活躍した。竹中家は関ヶ原合戦時の戦功により、美濃岩手の地を安堵された。石高は6千石だったため岩手陣屋と呼ばれ、竹中家は幕末まで存続した。
永禄2年に遠藤盛数が築いた城。天正16年に稲葉貞通が城主となるが関ヶ原の合戦で西軍につき、もと郡上八幡城主の遠藤慶隆ら東軍の攻撃を受け落城した。郡上八幡には遠藤慶隆が復帰し、2万7千石を領した。
郡上地方を支配する東氏村によって築かれた城である。天文9年に時の当主であった東常慶が翌年に本拠を赤谷山へ移したため、篠脇城は廃城となった。東氏館は篠脇城の山麓に位置し、東氏の日常の居館が存在した。居館には庭園が配されていた。
関ヶ原合戦直後に築かれた城で、初代の城主は奥平信昌であった。関ヶ原合戦時、当地には岐阜城があったが、戦後その岐阜城を廃して加納城が築かれた。信昌は家康の長女・亀姫の夫であり、一族の重鎮として要地である美濃の中心・加納に封じられた。
黒野出身の加藤光泰は羽柴秀吉の配下となり、甲斐国の国主となった。光泰が死去すると子の貞泰が跡を継ぐが、幼少だったため減封され、黒野城を新たに築いた。関ヶ原合戦で東軍につき江戸時代になっても黒野藩の藩主をつとめたが、慶長15年(1610)に米子に転封され、黒野城は廃城された。現在も周囲を土塁と堀に囲まれた本丸が残り、地元の方による整備も進んでいる。
天文六年に斎藤道三の命を受けた斎藤正義が築いた城。永禄八年 (1565)に尾張の織田信長が美濃を制圧すると、部下の森可成が城主に任じられ、金山城は東美濃支配の拠点となった。慶長五年に犬山城を拡張するため城が解体された。
久々利城は美濃国守護・土岐氏の一族・久々利氏の居城で、南北朝時代から当地を支配した。久々利氏は斎藤道三、のちに織田信長の支配下に入る。本能寺の変後には金山城主の森長可と敵対し、久々利城は落城した。当地には千村氏が封じられ、城の山麓に陣屋が開かれた。
小里城は美濃国東部にあった城で、土岐氏支流の小里氏が天文元年(1532)頃に築いたのが始まり。以降小里氏の居城となり、関ケ原合戦後に山麓の御殿場に陣屋を構えた。小里氏は元和九年(1623)に無嗣断絶となり小里城も廃城となった。城は山麓の御殿場跡と山上の本丸曲輪に別れ、それぞれ石垣が残る。
戦国時代に美濃の攻略を目論む織田信長が木下藤吉郎(豊臣秀吉)に命じて築かせた城と伝わる。秀吉は非常に短期間で城を築き、美濃の斎藤氏は築城を妨げることが出来なかったと言う。現在は模擬天守が建てられ、内部は資料館となっている。