旧伯耆国・鳥取県米子市にある城。伯耆の戦国大名・山名氏が築いた城で、尼子氏、次いで毛利氏が城を支配した。関ヶ原合戦で西軍の毛利氏が敗北すると、東軍の中村一忠が伯耆国十八万石を領し米子城に入り、慶長七年(1602)に城は完成した。城には天守が2つ(天守と四重櫓の副天守)が上がっていたと言う。
戦国時代の南条氏の本拠城。南条氏は東伯耆を領した豪族。東から織田信長の攻勢を受け降伏したが、毛利氏から攻撃を受け落城した。豊臣秀吉と毛利氏の間で和議が結ばれると、南条氏が城主として復帰したが、関ヶ原合戦で敗北し改易された。
幕末に鳥取藩が由良湊付近と沿岸警備のために築いた台場。当時は外国船が日本沿岸に頻繁に現れ上陸するなどの背景があった。築かれたのは文久三年頃。現在でも台場には砲座が4つ見られ、往時には大砲が海に向かって据えられていた。
日本百名城。山名氏の支配の後、毛利家の支配を受け吉川経家が城主となるが、羽柴秀吉が来襲し、兵糧攻めの末落城、吉川経家は自決した。江戸時代は池田氏が入城し、明治維新まで続いた。城は、山城の部分と、近世に整備された山麓の部分からなる。
播磨と但馬を結ぶ街道沿いに位置する城。当時の豪族である矢部氏によって築かれたのが始まりと言われる。織田信長の勢力が当地に及ぶとその支配下に入った。関ヶ原合戦後には山崎家盛が入り若桜藩を立藩したが、山崎家は転封となり廃城された。
鹿野城は別名「王舎城」と呼ばれるが、これは城主・亀井茲矩の仏教思想に基づくものと言われる。また、茲矩は幕府公認でシャム(タイ)などと海外貿易を行った。櫓には朝鮮櫓、オランダ櫓などの名前が付けられた事からも茲矩の海外志向が覗われる。
鳥取城の南方、若桜鬼ヶ城の西方に位置する城。戦国時代に城を支配したのは山名氏だが、天正八年(1580)には景石城は羽柴秀吉の手に落ち、秀吉の家臣・磯部豊直が城主となり、秀吉の鳥取城攻めの拠点として機能したものと思われる。慶長五年(1600)の関ヶ原合戦後、若桜鬼ヶ城の城主・山崎氏の家臣が入ったが、慶長20年(1615)に一国一城令が発令されると廃城された。