丹波を平定した明智光秀によって築城された城。光秀の滅亡後は豊臣秀吉の支配下に入り、江戸時代を通じで福知山藩の藩庁として機能した。石垣には築城時に集めた寺社の石塔などが使われている。その石垣上に外観復元天守が建てられた。
丹波国を平定中の明智光秀によって築城された城で、光秀の活動の拠点となった。関ヶ原合戦により徳川家の支配下に入り、大坂城の豊臣家を包囲するための城として重視され、天下普請で大改修された。縄張りは藤堂高虎が行ったと言われる。
周山城は織田信長から丹波支配を任された明智光秀が築いた丹波東部に位置する城である。当時の光秀の領国は近江坂本と丹波に跨り、周山城は坂本と丹波国中心の中間点に位置する重要拠点であった。城は本能寺の変後間もなく廃城になったものと思われる。主郭部には今でも明智光秀が築いた石垣が残るなど、見どころの多い城である。
園部城は初代園部藩主・小出吉親が元和五年(1619)に築いた園部陣屋が前身で、明治元年(1868)から翌年にかけて城郭に拡張され園部城となった。現在城跡は園部高校などになっており、櫓門は高校の正門となっている。
天正6年に丹後国を平定した織田信長の部下・細川藤孝が築いた城。関ヶ原合戦では西軍の大軍に囲まれるという難事に直面した。戦後京極高知が宮津城を本拠地とし田辺城は廃城された。高知の死後、その三男の高三が舞鶴に封じられ城を再築した。
天正八年(1580)に細川藤孝が築いた城。細川藤孝は当時は織田信長に属して活躍し、丹後国を与えられ、当地に城を築いて本拠とした。関ヶ原合戦の際には細川氏は東軍に付くが、近隣の西軍に攻められ、細川藤孝は宮津城を焼いて舞鶴の田辺城に退去した。関ヶ原合戦後には京極氏が入り、京極高広によって再建された。
世界遺産、国宝、日本百名城。現在の二条城は、徳川家康が将軍の宿泊所として慶長8年(1603)から築城を開始し、寛永3年(1626)に完成した。二の丸御殿は国宝であり、それ以外にも隅櫓・大手門などの貴重な建造物が現存する。
現在の淀城は徳川二台将軍秀忠の代に、伏見城を廃城するかわりに当地に築かれた城で、寛永2年(1625)に完成した。後に稲葉氏が城主となり幕末を迎えた。それ以前にも淀の別の場所に城は存在していた。この城は秀吉の側室である茶々に与えられたため、茶々は淀殿と呼ばれるようになった。
南北朝時代に南朝方に備えて築かれたのが始まりと言われる。応仁の乱では畠山義就側の城となった。その後畿内を織田信長が治めるようになると、細川藤孝が城主となり城に改修を施した。現在は勝龍寺城公園として整備されている。
伏見城は三度築城された。最初は豊臣秀吉の隠居城だが地震で倒壊した。秀吉は再度伏見城を築城し、この城で没するがこれも関ヶ原合戦の折に焼失。その後徳川家康が再々建し、1625年に廃城となった。現在は模擬天守が2棟建っている。
当時関白に就任した豊臣秀吉が天正15年(1587)に築いた城。秀吉が関白職を養子の秀次に譲ると、聚楽第は秀次のものとなった。しかし秀吉に実子ができると秀次は秀吉から疎まれ、文禄4年(1595)秀次は切腹し、聚楽第は廃城された。現在城跡の遺構は殆ど残っていないが、移築建築と伝わる建物がいくつか残る。