日本百名城。幕末に箱館港を防御するために築かれた。明治元年に旧幕府軍が五稜郭を占拠したが、翌年には旧幕府軍は敗北、新政府軍が占拠した。城の縄張りは日本の通常の城とは異なり、西洋の城郭をモデルに五角形をしている。
日本百名城。幕末になるとロシア船が近辺に出没し、危機感を感じた幕府が松前藩に命じて福山館の地に築いた城で、安政元年 (1854)に完成した。明治元年(1868)の戊辰戦争の際に、榎本武揚ら旧幕府軍の攻撃を受け落城した。
武田信広が築いた館で、築城は1470年頃と伝わる。信広は道南に拠点を置き貿易を行っていた蠣崎季繁の配下で、季繁の娘婿となりのちに蠣崎氏を引継いだ。勝山館はその本拠地として使われた。福山館(松前城)が本拠となるとその支城となった。
松前藩が安政2年(1855)に築いた陣屋。城は4つの頂点を持ち、うち1つには砲座が設けられ、大砲6門が設置できるようになっていた。明治元年(1868)に旧幕府軍が蝦夷地に襲来すると、守備軍は自ら建造物に火をかけて逃走した。
榎本武揚率いる旧幕府軍が明治2年(1869)に明治新政府軍からの攻撃に備えるために突貫工事で築いた。しかし新政府軍が攻撃を開始すると、その日のうちに陥落してしまった。城の形は、その名の通り4つの頂点を持つ。
志苔館は函館当方の海岸沿いに築かれた城。海岸沿いには位置するが、標高は約25メートル程度ある。館は基本的には一重の堀に囲われているが、正面には二重の空堀が設けられているのが特徴。この城は本州から蝦夷に移住した小林家が城主を務めていたが、アイヌとの間で衝突が発生し落城し、廃城となった。