日本百名城。常陸を支配していた佐竹氏が新たな居城として築き、慶長9年(1604)に完成した城。東国の城らしく、石垣は存在しない。現在は千秋公園として整備されている。御物頭御番所が現存する他、御隅櫓、本丸表門が再建された。
安東氏は津軽の十三湊を拠点としていたが、嘉永三年(1443)に南部氏との戦いに敗れ蝦夷に逃れた。康正二年(1456)には安東政季が当地を治めていた葛西秀清を破り当地の支配権を得て、政季の子の忠季が檜山城を築いたと伝わる。安東氏は秋田氏と改姓し、関ヶ原合戦の後常陸へ転封になり、代わって佐竹氏が入封した。檜山城主には小場氏、多賀谷氏が任じられた。
男鹿半島南側の海沿いにある丘陵に築かれた城。戦国時代末期に檜山安東氏の安東愛季が勢力を伸ばし、元亀元年(1570)に当地を支配下に置いた。天正五年(1577)には愛季は脇本城に修復を加え居城としたが、天正15年(1587)に死去し、脇本城下に葬られた。江戸時代の大地震では城地の一部が海中に崩れたと言う。
浦城は八郎潟の東方に位置し、当地は湊安東氏の勢力下にあった。永禄10年頃から湊安東氏に仕えた三浦盛永が城主をつとめた。天正16年の湊合戦の際に三浦盛永は湊安東氏側についた。最初は優勢に戦を進めたが、やがて劣勢となり、浦城も攻撃を受け落城した。城は整備され、見張り台などの設備や柵が設けられており、見学しやすい。
室町時代、比内地方は浅利氏が治めており、大館城は浅利勝頼により天正19年(1550)に築城されたと伝わる。当地は南部氏、秋田氏、津軽氏らの勢力争いの争点となり、慶長三年(1598)には秋田氏が浅利氏を滅ぼした。関ヶ原合戦の後、秋田氏は常陸に転封され、かわって佐竹氏が入部し久保田藩を立藩した。戊辰戦争の際には南部家の攻撃を受け焼失した。
出羽の戦国大名・戸沢氏の本居城。関ヶ原合戦後に戸沢氏は転封され、角館は佐竹氏の支配下に入った。城主にはかつての会津地方の戦国大名・蘆名氏の当主で、佐竹家の庇護を受けていた蘆名義広が任じられた。現在でも城下町が広がる。
当地の戦国大名・小野寺氏が築城した城。関ヶ原合戦の際に小野寺家当主の義道は西軍につき改易され、横手城は佐竹家の支城となった。幕末には奥州の多くの藩は佐幕派であったが佐竹家は新政府側に立ったため、横手城は佐幕派の攻撃を受け落城した。
本荘城は慶長十五年に最上家家臣の楯岡満茂(本荘満茂)が築いた城である。元和八年に最上家が改易されると、当地には権勢を誇った本多正純が転封されるが、正純は転封を拒否して横手に幽閉された。本荘の地には六郷政乗が封じられた。
元和9年に岩城吉隆が当地に封じられ吉隆は亀田陣屋(亀田城)を築いた。吉隆は秋田藩佐竹氏の一族であり、佐竹家当主の義宣には子が無く、吉隆は佐竹家の養子とな、後に佐竹家の家督を継いだ。そのため岩城家当主には吉隆の叔父・宣隆が就任した。
五城目城は砂沢城とも呼ばれ、天正17年(1589)の湊合戦の後に藤原秀盛が城主を務めた。藤原氏は五十目氏を名乗り、城下を整備した。慶長6年(1601)に秋田氏が転封されると廃城となった。現在城跡には模擬天守が建ち、内部は森林資料館となっている。
湊城は湊安東氏の本拠城。天文20年(1551)には湊安東氏の当主・堯季が死去したのち、檜山安東氏が湊安東氏を併合し、最終的に檜山安東氏当主の安東実季は檜山城から湊城に本拠を移した。関ヶ原合戦後に常陸の佐竹家が転封されてきたが、慶長9年(1607)に湊城を廃し新たな本拠として久保田城を築城した。