永正年間に紀州・熊野水軍の安宅氏が築城したのが始まりと言われる。安宅氏滅亡後は、仙石秀久、脇坂安治、播磨姫路の池田氏、阿波の蜂須賀氏の領地となった。一度廃城となるが寛永8年(1631)に再築され、山麓部に居館などが建てられた。
世界遺産、国宝。三大平山城、日本百名城。天守以外にも多くの建造物が現存し、往時の城の姿を知ることができる。1580年に羽柴秀吉が毛利氏討伐の拠点とした。関ヶ原合戦後に池田輝政が天守を、本多忠政が西の丸を整備し現在の姿となった。
日本百名城。浅野長直が寛文元年(1661)に築いた城であり、国内の戦乱が収まってから築かれた珍しい城。城の縄張には、当時の高名な軍学者である山鹿素行の助言があった。城は海に面しており、船で直接乗り入れるような城門も設けられた。
明応8年(1499)に赤松村秀が鶏籠山に築城したのが始まりで、以降赤松氏四代が城主を務める。しかし天正5年(1577)には織田信長の勢力が及びその支配下に入った。江戸時代に山麓に居館が構えられ現在見る城の姿となった。
現在林田陣屋のある場所には、室町後半に谷沢国氏が築いた窪山城と呼ばれる城があった。この城は永正13年(1516)に赤松政村によって落城した。その後江戸時代の元和三年(1617)に建部政長が統治に一万石で封じられ陣屋を構えた。これが林田陣屋である。建部氏は明治維新までこの陣屋を拠点に当地を治めた。現在は陣屋跡の丘が残り、また藩校の敬業館講堂が現存する。
播磨の豪族・別所氏の本拠城である。天正6年には羽柴秀吉の攻撃を受け、2年間にわたり城を包囲され城内の食料が底を尽き、城主の長治が切腹し開城した。これは「三木の干し殺し」として知られる。元和5年の一国一城令により廃城された。
日本百名城。 元和3年に小笠原忠真が築いた城。本丸の四隅に櫓が建てられたが、天守は存在しなかった。明治維新により廃城となったが、本丸の坤櫓、巽櫓は現存する。神戸淡路大震災の際には櫓や石垣に損害が出たが、修復された。
波賀城の築かれた時期は明確ではないが、中村氏が13世紀頃に当地に移ってきて築城したものと思われる。中村氏は播磨の赤松氏の支配下に入り勢力を維持したものと考えられる。現在城跡は波賀城史蹟公園として整備されている。
山崎城は別名を宍粟城とも呼ばれ、元和元年に姫路藩主池田輝政の四男・輝澄が当地に分知され山崎藩を立藩した際に築城された。のちに松平氏、再度池田氏、本多氏が藩主となり幕末に至った。
元禄十年に津山藩森家が改易された際に、森家の分家・森長俊が転封され開いた陣屋。当地にあった庄屋を移転させて築いたと言われる。以降、森家は幕末まで陣屋を支配した。物見櫓は現存する建物で、その左右に通用御門や中御門、長屋門などが復元された様子は見ごたえ十分である。また近くに幕末に練兵場があったと言われる三方里山があり、石垣が残っている。
因幡街道沿いの宿場町に築かれた陣屋。背後の山には利神城が控える。利神城は関ヶ原合戦後に当地を治めた池田輝政の甥・由之が築いた城で、三層の天守閣を備えた立派な城であったと言うが、あまりにも立派なので輝政は幕府から睨まれることを恐れたのか由之に破却を命じたと伝わる。後に当地は旗本の領地となり、代官所が置かれた。現在でも代官所陣屋門が残る。
鎌倉時代の末期に伊丹氏が築いたのが始まりと言われ、城名は伊丹城であった。織田信長の攻撃にあい落城し、荒木村重が城主となり有岡城と改名した。村重は信長に対し謀反を起こし再度信長軍により落城した。現在は主郭部が伊丹駅前に残る。
もともと有子山に城があったが、関ヶ原合戦後に廃され山麓に城が築かれたのが出石城である。小出氏、松平家、仙石家が城主となる。仙石家は信濃国上田から転封され、この時に信州蕎麦職人も一緒に出石へ来たのが、出石の蕎麦の始まりと言われる。
山名氏はもとは近隣の此隅山城を本拠としていたが、羽柴秀吉の攻撃を受け落城すると有子山城を築いた。しかし再び秀吉の攻撃を受け落城し、以降有子山城は織田氏の支配下に入る。関ヶ原合戦後には山麓に出石城が築かれ、有子山城は廃城となった。
日本百名城。別名虎臥城。但馬国守護の山名持豊が家臣の太田垣氏に命じて築かせた。円山川沿いの山頂に位置し、麓から総石垣の城を見上げると壮観で、また城からの眺めも絶景である。秋には雲海に城が浮かび上がる景観を見ることができる。
山名四天王の一人である八木氏の本拠地。八木氏は天正8年に織田信長に降伏、別所重棟が城主となり文禄年間に石垣造りの城郭となった。別所氏は重棟の子・吉治が関ヶ原合戦で西軍についたため戦後改易され、城も廃城となった。
日本百名城。徳川家康が大坂城の豊臣家を包囲するために築いた城である。築城には多くの西国大名が動員される天下普請であった。篠山城の縄張りは藤堂高虎が行った。二の丸には御殿が建造され、現在そのうちの大書院が復元されている。
八上城は丹波の戦国大名・波多野氏の本拠城である。織田信長が台頭すると波多野氏は対抗、織田方の武将・明智光秀に城を包囲され、約1年の籠城の末落城し波多野氏は滅亡した。1609年には程近くに篠山城が築城され、八上城は廃城となった。
天文23年に赤井直正が城主となり、一度は織田信長に降伏するがやがて敵対する。直正は天正6年に没し明智光秀の攻撃を受け落城。このとき光秀の部下・斎藤利三が城主となり、利三の娘である春日局(3代将軍家光の乳母)はこの城下で誕生した。
正徳四年(1714)に築かれた陣屋。当時の藩主は織田信休で、信休は織田信長の子孫に当たる人物である。信休は大和松山藩の藩主であったが、元禄八年(1695)に柏原藩に転封となり、この柏原陣屋を築いた。現在でも陣屋創建当時に建てられた長屋門や、江戸時代に建てられた表御殿が残る他、城下には太鼓櫓も移築現存する。