紫川河口に築かれ、関門海峡を押さえる要衝の地に位置する。関ヶ原合戦後、細川忠興が封じられ城を拡張した。慶長15年(1610)には天守が完成し威容を誇ったが天保8年(1837)に焼失。昭和34年に鉄筋コンクリート製で復興された。
北西に筑後川が流れる丘陵に築かれた城。往時には天守は建てられなかったが、本丸に七つの櫓が立ち並び、特に東南隅には三層の櫓が建てられていた。元和七年(1621)に有馬豊氏が入城し、明治維新まで有馬氏が11代城主を務めた。
城を築いたのは筑後の豪族・蒲池氏。城の周囲には水路が張り巡らされ難攻不落を誇った。天正十五年には立花宗茂が城主となるが関ヶ原の合戦で改易され、代わって田中吉政が支配し天守を築いた。田中氏の改易後には立花宗茂が城主として復活した。
関ヶ原合戦後の慶長5年(1600)に筑前国に封じられた黒田長政が築城した城。当初名島城を居城としていたが、より大きな城の必要性を感じ福岡城を築城した。築城に際し、当地の地名を黒田家の故郷である備前福岡にちなみ、福岡と改名した。城地は北は玄界灘に面し東は商人の街・博多に隣接していた。現在は舞鶴公園として整備され、壮大な石垣や櫓、城門が現存する。
黒田長政の三男長興が分封され秋月藩主となった際に築かれた城である。明治維新の際に廃城されたが、現在でも城門や武家屋敷が残り、城下町の雰囲気を味わうことができる。秋月城築城以前は背後の古処山に城があり、古処山城と呼ばれていた。
16世紀に大友氏配下で筑前守護代の高橋鑑種が築城した城である。その後吉弘鎮理(高橋氏を継ぎ高橋紹雲と名乗る)が城主となった。天正14年には北上する島津軍の攻撃を受け落城、城主高橋紹雲以下、将士763名全員が戦死したと言う。