日本百名城。毛利家が関ヶ原合戦に敗北し居城であった広島を没収されたため、新たな居城として築かれた城。阿武川河口の三角州の平城部分と、海に突き出すように聳える標高143mの指月山にある山城からなる。城下町の雰囲気が素晴らしい。
長府藩が幕末の文久三年から築いたもの。わずか七カ月で完成した。名称は御殿であるが、実態は城郭そのもの。当時の長府藩は攘夷のため外国船に攻撃を加えていたが、海沿いの長府に対して外国船からの攻撃を受けたため、内陸の勝山に城を築き本拠を移したと言われる。廃藩置県後、御殿は豊浦藩庁、豊浦県庁として用いられたが、豊浦県は山口県と合併し役割を終えた。
大内氏の家臣・内藤隆春が築城したと伝わる。大内家最後の当主・大内義長は毛利氏の攻略を支えきれず山口を脱出すると、当地にたどり着いたが、櫛崎城近くの功山寺で毛利軍に囲まれ自刃した。櫛崎城は大内氏を滅ぼした毛利氏の城となったが、毛利氏は関ヶ原合戦で敗北し、防長に減封された。その際に当地に毛利秀元が封じられ、長府藩を開き、櫛崎城を本拠とした。
幕末の毛利家当主・毛利敬親が藩庁を萩から便利な山口に移転することを決め、築城された城。元治元年(1864)に完成した。背後に詰城である高嶺城を擁する後堅固の城。山口は元々大内氏の本拠地として栄え、その館跡が市街に残る。
日本百名城。毛利家家臣の吉川広家がこの地に封じられた時に築城された城である。安芸国との国境に位置し、関ヶ原合戦後に築城された城としては珍しく山上に築かれたことから東方からの侵略に備えたものと思われる。一国一城令により取り壊された。