栗野城は松尾城とも呼ばれ、戦国時代に島津義弘が築いた城である。当地は日向・薩摩・大隅の境界付近に位置し、北原氏が領していた。その後、天正18年(1590)に島津義弘が栗野城を築き、飯野城から居城を移した。その後間もなく義弘は居城を帖佐へ移した。城には野面積の石垣が用いられ、特に本丸虎口付近を厳重に固めているのが特徴である。
元々この地方の海沿いに富隈城があったが、関ヶ原の戦い後に徳川軍の襲来に備えるために築かれた城。別名舞鶴城とも呼ぶ。国分城は平城だが、背後の山に山城である隼人城を築き、後ろ堅固とした。以降も当地の政治の拠点として役割を果たした。
島津家は豊臣秀吉の九州征伐で降伏。島津義久は降伏の意を表すために隠居し、その隠居城として築かれたのが富隈城である。城の防御性は高くなく、関ヶ原合戦後に徳川軍が攻め寄せて来た場合に備えるため、富隈城は廃城され、国分城が築かれた。
帖佐館は島津義弘の居館跡で、御屋地跡とも呼ばれる。普請を担当したのは義弘の家老の新納旅庵で、石材は湯湾岳から採取したものである。居館が築かれたのは文禄四年(1595)で、以降慶長十一年(1606)まで当地に居を置いた。現在は居館跡には稲荷神社があり、居館周囲には石垣が残る。
蒲生氏が享徳二年(1529)頃に築いた城である。天文二十三年(1554)の岩剣城攻めの際に初めて島津氏が実戦に鉄砲を用いた記録が残っている。この戦いで島津氏は岩剣城を攻略すると、島津義弘が城主となったが、山上の城は不便であったため、山麓に居館を設けた。これがのちの平松城の始まりである。江戸時代のには越前島津家が再興され、平松城は越前島津家の居城として取り立てられた。
日本百名城。別名鶴丸城。関ヶ原合戦後に島津家の居城として築かれた城で、背後に山城を擁し、山麓に居館を築いた形式。城の構造は単純で天守もなく簡素な造りであったが、島津藩は領内各地に麓と呼ばれる城を配置し、それにより国を守った。
当地の地頭・佐多氏の本拠地の城で、南北朝時代の文和2年に始まる。天正19年に城主が種子島氏に代わったが、その後城は焼失したと言われる。慶長15年には知覧の領主に佐多氏が復帰し、久峰が現在の場所に麓を置いた。
清色城のあった当地には、宝治元年(1247)に当地に下向した渋谷一族が根付き、支配を行った。清色城はその渋谷氏が南北朝時代末期頃に築城したものと考えられる。渋谷氏は室町時代中期から入来院氏を名乗り、戦国時代には島津家に従い、明治維新まで約600年間当地を治めた。清色城の城下には城下町が開かれ、江戸時代には薩摩藩の入来麓となった。
出水城は島津家の分家である薩州島津家(薩州家)の居城であった。その時代の城は現在の武家屋敷の背後にある城山にあった。江戸時代に入ると城下に麓(武家屋敷群)が設けられ、肥後との国境を守る重要な役目を果たした。現在でも数多くの武家屋敷が残り、江戸情緒の町並みが楽しめる。
伊作城は伊作島津家の居城で、初代・久長が築いたのが始まりと伝わる。以降、十代・忠良に至まで居城となった。忠良の代の頃には島津本家の勢いは衰え、本家十四代当主・勝久は忠良の子・貴久を養子に迎え次の島津本家の当主としたが、忠良と敵対する実久により当主の座を追われた。しかしその後、忠良・貴久親子は挽回し、再び島津本家当主の座を取り返した。
一宇治城は島津家第十五代当主・島津貴久が天文年間に本拠とした城である。それ以前の鎌倉時代以降、伊集院郡司の紀四郎時清(伊集院時清)が最初の城主であったと言われ、時清の子孫が四代続いた後、島津一族の伊集院久兼が城主となっていた。島津貴久は天文十九年(1550)に内城に移転するまで、一宇治城を居城とした。