高橋元種によって慶長八年に築城された近世城郭。別名は県城。この城の特徴は二の丸の石垣で、「千人殺し」と呼ばれるものである。その名は、石を一つ外すと高く長い石垣が崩れ落ち、大勢の敵軍を殺すことができると言われることから名づけられた。
新納氏・土持氏の支配の後、伊東氏の支配下にあったが、島津氏が日向を制圧すると家臣である山田有信が城主となった。大友氏は日向の奪取をもくろみ出陣し高城を攻撃しが落城せず、大友軍は島津軍の援軍と戦い大敗し撤退した(耳川の戦い)。
もとは財部(たからべ)城と呼ばれ、土持氏、のち伊東氏が支配したが、島津氏が伊東氏を破り島津氏の支配下に入った。豊臣秀吉による九州征伐の際には秋月氏が封じられ、幕末まで秋月氏が城主をつとめた。寛文九年に城名が「高鍋」に改められた。
日向一円を支配した伊東氏の本拠地であり、伊東義祐の代には京風文化が栄えた。伊東家没落後は島津家の支配下に入った。明治3年には佐土原城は廃城となり、近隣の広瀬に城が移転するが、明治4年の廃藩置県で広瀬城も廃城となった。
日向の戦国大名・伊東氏の本拠城。日向国に下向した伊東祐重が建武2年に築いた。天正5年に伊東氏が島津氏に敗れると島津氏の支配下に入った。城は空堀で区切られた幾つもの郭からなり、現在も芝生が植えられるなど整備が行き届いている。
足利尊氏の家臣である細川義門が築いた城である。義門は綾氏を名乗り以降綾氏が城を支配した。綾氏はやがて日向の戦国大名・伊東氏の支配下に入った。伊東氏が島津氏との戦いに敗れると、代わって島津氏が支配したが、一国一城令により廃城となった。
日本百名城。元々島津家の支配下にあったが、文明17年に日向の大名・伊東祐国が攻撃を行って以降、100年以上に渡って伊東家・島津家の間で激戦が繰り広げられた。天正15年 (1587)の秀吉の九州征伐により伊東家が城主に任じられた。
秀吉による九州征伐の後に島津家家臣の伊集院忠棟が城主となったが、忠棟は秀吉と懇意であったため島津家から危険視され、島津藩初代藩主である島津忠恒に殺害された。忠棟の子・忠真は都城城に籠城し島津家に反旗を翻すが、和睦した後殺害された。