武蔵・相模の国境である鶴見川沿いに築かれた城。当地は山内上杉家の領地であったが、のちに後北条家の支配下に入った。大永4年(1524)に北条氏尭が城主となるなど、北条家の関東支配の要地を占めた。現在城跡は第三京浜に分断されるが、整備は行き届いており、孟竹宗の竹林となっている。
早渕川沿いの高地に築かれた城。付近の小机城の支城の役割と果たした。史料に現れるのは平安時代末期で多田太郎が城主であったと伝わる。その後上杉家の支配を受け、のちに二重土塁の間に空堀をめぐらせる築城方法から北条家が改修を加えたものと思われる。城は西郭、中郭、東郭、北郭から成り、東郭が本丸に相当すると思われる。
日本百名城。後北条氏五代約百年間に渡る支配の本拠地となった。堅固な守りで有名で、上杉謙信・武田信玄による攻撃を撃退している。また、豊臣秀吉による関東討伐前には城下町を含む周囲約9kmの惣構によって城域が囲まれた。現在の天守は昭和35年に建造されたもの。
豊臣秀吉による小田原攻めの際に小田原城を包囲するために築かれた陣城。山林の中で小田原城中からは見えないように築城し、完成後周囲の木を伐採したので城中からは一夜で城が出来たかのように思えたことから、「石垣山一夜城」と呼ばれる。
河村城は北を旧皆瀬川、南を酒匂川に挟まれた要害に位置する。室町時代末期時代には後北条氏が相模国に進出し、その支配下に入った。後北条氏は小田原城を本拠としたが、河村城はその支城として重要な役割を果たした。
足柄城は相模・駿河国境の足柄峠に築かれた城で、足柄街道を扼している。築城時期は不明だが、戦国時代の後北条氏が小田原防御拠点のひとつとして整備した。天正18年(1590)には豊臣秀吉の大軍が攻め寄せ落城し、廃城となった。
後北条家が相模攻略の拠点として築いた城。三浦半島の押さえと鎌倉を支配する目的も持っていたものと思われる。当初は北条家の重臣・大道寺盛昌が城代をつとめたが、後に北条氏時、北条為昌が城主となり、玉縄衆と呼ばれた。その後、黄八幡として有名な猛将・北条綱成が城主となり、数々の戦で活躍し北条家の勢力拡大に貢献した。