天守の現存する城。日本百名城。慶長16年(1611年)に津軽藩藩主の津軽信枚によって築城された。天守以外にも隅櫓三棟、城門五棟の建造物が現存し、重要文化財に指定されている。広大な城域は現在は公園として整備されている。
築城時期は応仁の乱(1467-77)の頃と推測され、浪岡北畠氏が城主となった。天正6年(1578)に大浦(津軽)為信との戦いに敗れ落城し、浪岡北畠氏は滅亡した。空堀が二重・三重になっているのがこの城の特徴である。
福島城は十三湊に勢力を張った安東氏の拠点として築かれた。十三湖は岩木川が日本海に注ぐ河口にある湖で、安東氏はここに湊を開き、日本海沿いや大陸との間の交易で繁栄を誇った。十三湖湖畔の丘陵上に築かれ、縄張りは内郭と外郭を持つ。また後背の山には唐川城が築かれた。
堀越城は戦国時代に津軽統一を果たした津軽為信の城。津軽為信は南部家からの独立を果たす際、この城を拠点とし周囲の石川城、大光寺城など南部方の城を攻撃した。文禄三年(1594)には大浦城から堀越城に居城を移したが、慶長八年(1603)になると新たに弘前城の築城を開始し、堀越城は廃城となった。
大浦城は津軽の戦国大名・津軽為信の当初の居城である。それ以前は南部家の城で、家臣の大浦家が城主をつとめていたが、元亀二年(1571)に大浦為信は南部家からの独立をはかり、周囲の南部方勢力を次々と駆逐し独立を果たした。この際、姓を大浦から津軽に改めた。文禄三年(1594)には為信は居城を堀越城に移した。
陸奥北部を支配した戦国大名・南部氏の本拠城。馬渕川と熊原川に挟まれた山上に築かれた。築城者は南部氏24代・晴政で築城年は永禄年間(1558~1570)と伝わる。その後南部氏は新たに盛岡城を築き、本拠城を三戸から移した。
八戸城は馬淵川と新井田川に挟まれた丘陵に築かれた城。南部家は寛永四年(1627)に根城を廃し八戸城を築城した。その後、南部家の支藩である八戸藩が誕生し、八戸城はこの時八戸藩の首府となり、城が拡張されたと言う。現在、城跡は三八公園として整備されている。
七戸城は南部家が築いた城で、南部家の支族である七戸南部家が城主であった。しかし康正二年(1456)の蠣崎蔵人の乱の際に落城した。天正19年(1591)には南部家の家督争いが起こると、七戸家国は九戸政実側につくが、豊臣秀吉の討伐軍に敗れて処刑された。文政2年(1819)には盛岡藩の支藩として七戸藩が立藩された。