日本百名城。築城したのは仙台藩藩主の伊達政宗で慶長五年(1600)に着工し同七年に完成した。関ヶ原合戦後、家康から築城の許可を受け岩出山城から居城を移した。本丸の崖上には清水寺のような足組みの上に座敷が建てられていた。
室町時代は当地は大崎氏の支配下にあり、その家臣・氏家氏が城主を務めた。豊臣秀吉による関東征伐の際に大崎氏は改易され滅亡した。この時伊達氏が米沢から岩出山に転封され、以降岩出山城は仙台に移転するまで伊達氏の本拠地となる。
かつては当地は大崎家の支配下であったが、豊臣秀吉による奥州仕置きにより大崎家は改易された。その後伊達家の支配下に入り、鈴木元信が古川城主となった。寛永年間に廃城になったと言われる。
かつては当地は大崎家の支配下であったが、その後伊達家の支配下に入った。慶長十六年(1611)年には伊達家家臣・後藤信康が不動堂城城主に任じられ、幕末まで城主を務めた。伊達氏二十一要害の一つで、不動堂要害と呼ばれた。
江合川沿いの要害の地に築かれた城である。当地には、元は大崎氏の一族・涌谷氏の居館があった。天正十九年には伊達家家臣の亘理元宗が城主となり、以降幕末まで亘理氏(涌谷伊達氏)が城主を務めた。城には往時の石垣と櫓が一棟残る。
当地は室町時代には葛西氏の領地で、城は葛西氏が築城した。奥州仕置きにより葛西氏は改易され、秀吉の家臣・木村吉清が葛西氏と大崎氏の遺領を支配したが、一揆が発生し木村氏はその責任により領地没収され、代わって伊達政宗の領地となった。
伊達家が永禄年間に家臣に命じて築かせた城。天正十九年には伊達成実が、慶長三年に伊達政宗の叔父・石川昭光が城主に任じられた。昭光は城の改修を行い、城下町を建設し、幕末まで石川氏が領主を務めた。一国一城令後は「角田要害」と呼ばれる。
金山城は相馬家家臣の井戸川将監・藤橋紀伊が永禄年間に築城した城である。その後、相馬家と伊達家の間で攻防が行われ、天正十二年に落城し伊達家の支配下に入った。政宗は家臣の中島宗求を城主とし、以降幕末まで中島家が城主を務めた。
刈田氏のちに白石氏が治めた。白石氏は伊達氏の支配下に入り、以降蒲生氏、上杉氏が治める。関ヶ原合戦後再び伊達氏の支配下に入り、やがて片倉景綱が城主となった。明治維新時には奥羽越31列藩同盟がこの城で結ばれた。