日本百名城。関ヶ原合戦で功のあった山内一豊が土佐に封じられた際に大高坂山に築いた城。享保12年(1727)に天守などを焼失したが、再築され寛延元年(1748)に完成した。天守のほかにも、大手門や本丸御殿などの建造物が現存する。
長宗我部氏の本拠城。16世紀初頭に周辺勢力の連合軍に敗れ落城するものの、永正13年に時の当主・国親が城を奪還した。城は香長平野の岡豊山に築かれ、麓には国分川が流れ、自然の濠の役割を果たした。形状は東西に長く、連郭式の縄張りである。
土佐の豪族・本山氏が15世紀はじめに築いたのが始まり。その後、長宗我部氏がに本山氏を降し、のち天正19年に本拠を浦戸城へ移した。城は浦戸湾の入口、桂浜を崖上から見おろす位置に築かれている。山内一豊の土佐入封後に廃城された。
戦国時代に土佐東部を支配した安芸家の本拠城。永禄12年(1569)年に安芸城は長宗我部家に攻められ落城し、以降長宗我部家の支配下に入った。この際、長宗我部勢は場内の井戸に毒を投げ込み、城内の水の手を断ったと言われる。その井戸と伝えられるものが現在も残る。江戸時代になると土佐には山内家が封じられ、安芸城は安芸土居と改められた。
当地には応仁の乱の際に当地に避難してきた関白・一条教房によって中村御所が開かれた。中村城は土佐国西部・四万十川と後川に挟まれた山上に築かれた城で、一条家の重臣・為松氏によって築かれたと思われる。現在、城跡の二の丸には模擬天守が建ち、内部は四万十市立郷土資料館となっている。また、中村御所跡には一條神社が建てられている。
嶺北を本拠とする本山家が土佐平野部に進出すると、朝倉城を築いて本拠地とした。築城時期は天文九年(1540)頃と伝わる。永禄六年(1563)に本山家が長宗我部家との戦いに敗れると城を放棄し、廃城となった。
土佐長岡郡の山間で吉野川沿いに築かれた山城。当地の豪族・本山家の本拠城であった。本山家は戦国時代には茂宗が当主となり、土佐平野部に進出し勢力を拡大した。茂宗が死去すると茂辰が家督を継ぐが、長宗我部家との戦いに敗れ弱体化し降伏した。江戸時代には本山の地には土居が築かれ、山内家家老の山内一照が城主を務めた。
城の始まりは、嘉応二年(1170)に平家の近藤家綱が居城とした事と言われる。その後、建久三年(1192)に藤原国信が大平氏を名乗り、戦国時代まで大平氏が当地を支配した。大平氏は一条氏によって滅ぼされ、その後本山氏が城を落とすが永禄三年(1560)に一条氏が奪還した。永禄12年(1569)には長宗我部元親が城を攻撃し落城、吉良親貞(長宗我部元親の弟)が城主となった。