備中松山城は、延応二年(1240)に秋庭重信が築いたのが始まりと言われ、その後、高橋氏、庄氏らの城であった。
永禄四年(1561)には毛利氏と同盟関係にあった備中の戦国大名・三村家親が攻略し支配下に置いた。やがて毛利氏が三村家と敵対していた宇喜多家と同盟を結んだため、三村家は織田家と同盟を結んだ。これを受けて毛利家は三村家を攻撃し、備中松山城も落城した。
毛利氏は関ヶ原合戦で敗れ、小堀正次が城代として入城した。備中松山城は山城であり、日常の政務には不便であったため、山麓に別に居館が構えられた。
日本に十二城だけ存在する天守が現存する城であり、また櫓や土壁も現存する。
天守の現存する城。三大山城、日本百名城。備中の戦国大名・三村家親が攻略したが、毛利家が三村家を攻撃し落城した。毛利氏は関ヶ原合戦で敗れ、小堀正次が城代として入城した。日常の政務には不便であったため山麓に居館が構えられた。
(2007/3/11 作成、2017/6/19 更新、2022/4/27 更新)