柳川城は有明海沿いの低湿地に築かれた城である。城を築いたのは筑後の豪族・蒲池氏で、蒲池鑑盛の代の永禄年間(1558~1569)に改修を施し本居城とした。城の周囲には水路が張り巡らされ、難攻不落を誇った。天正八年(1580)には龍造寺隆信の攻撃を受けるが、鑑盛の子・鑑速は籠城戦の末城を守り抜き、両社は和睦した。しかし翌年に鑑速は龍造寺隆信に謀殺され、城は龍造寺の支配下に入った。
天正十二年(1584)には大友氏の名将・立花道雪の攻撃を受けるが守り抜いた。天正十五年(1587)には秀吉の九州征伐が行われ、その功により立花宗茂が城主となった。宗茂は慶長五年(1600)の関ヶ原の合戦で西軍についたため改易され、代わって柳川城は筑後一国を領した田中吉政が支配し、天守を築くなど城を拡張した。元和六年(1620)に田中氏が改易されると、立花宗茂が城主として復活し、以後幕末まで立花氏が支配した。
現在は城の遺構はほとんど残っていないが、今でも町には水路が多く残り、水郷めぐりなどの観光地となっている。
城を築いたのは筑後の豪族・蒲池氏。城の周囲には水路が張り巡らされ難攻不落を誇った。天正十五年には立花宗茂が城主となるが関ヶ原の合戦で改易され、代わって田中吉政が支配し天守を築いた。田中氏の改易後には立花宗茂が城主として復活した。
(2010/5/3 作成)