かつては大宝寺城と呼ばれ、庄内平野を支配した武藤氏の本拠地であった。天正15年に越後上杉氏の攻撃を受け武藤氏は滅亡、さらに上杉氏は関ヶ原合戦に敗れ、最上義光の領地となった。義光は城の名を鶴ヶ岡城と改めて自らの隠居城とした。
庄内藩主の酒井忠勝が三男・忠恒に松山を与えて治めさせたのが松山藩のはじまり。知行は2万石で陣屋を構えた。やがて安永八年に5千石の加増を受け、築城の許可も下り松山城を築いた。明治維新により廃城されたが、大手門は残り現在に至る。
新庄城は、新庄藩の初代藩主・戸沢政盛が寛永二年(1625)に築いた城である。往時は天守をも備える城であった。戸沢氏は幕末まで続き、明治維新を迎えて廃城となった。
日本百名城。延文元年に斯波兼頼が築いたのが始まりと言われる。文禄年間には最上義光が城を拡張し、さらに江戸時代の鳥居忠政の普請により現在見られる城の姿になった。かつての三の丸の面積は広大で、日本有数の規模を誇った。
山形城の西南7kmにある城で、山形城の支城の一つ。関ヶ原合戦の際には、直江兼続率いる西軍・上杉軍二万の軍勢が長谷堂城を攻撃するが、東軍・最上家家臣の志村光安・鮭延秀綱が城兵千名を率いて籠城し、約半月の間城を守りきった。激戦が繰り広げられた長谷堂城も、現在は城跡公園として整備され、散策に訪れる人も多い。
畑谷城は山形市西方の山間に位置する山城。上杉家の米沢領から最上家の山形領へ抜ける道を厄する位置にあり、最上家の家臣・江口光清が城主を務めた。関ヶ原合戦の際には上杉軍二万の攻撃を受け、畑谷城は落城し光清は自刃した。城の東の山麓には大きな空堀と土塁が、西側には三重の空堀が現存し、城の見どころとなっている。
室町時代に里見満長が山城を築いたのが始まりと言われる。室町時代から戦国時代にかけて、最上氏と伊達氏の攻防の間で落城や奪還を繰り返したが、最終的には最上氏の城となった。最上氏改易後は諸氏が城主となるが、土岐氏の時代に最も整備された。
天文17年に伊達晴宗が米沢に本拠を移し、政宗の代に東北一円を攻略し大大名に成長する。のちに陸奥岩出山へ転封された。代わりに蒲生氏郷、続いて会津の上杉氏の所領となるが、関ヶ原合戦で敗北し大減封され、米沢が上杉氏の本拠地となった。