畑谷城は山形市西方の山間に位置する山城である。上杉家の米沢領から最上家の山形領へ抜ける道を厄する位置にあり、最上家の家臣・江口光清(あききよ)が城主を務めた。
関ヶ原合戦の際には、光清は麓を流れる鵜川を堰き止めて水濠にするなどして防御を固めるが、米沢を進発した上杉軍二万の攻撃を受け、畑谷城は落城し光清は自刃、城兵五百名は全員上杉軍に打ち首にされた。
城の東の山麓には大きな空堀と土塁が、西側には三重の空堀が現存し、城の見どころとなっている。
畑谷城は山形市西方の山間に位置する山城。上杉家の米沢領から最上家の山形領へ抜ける道を厄する位置にあり、最上家の家臣・江口光清が城主を務めた。関ヶ原合戦の際には上杉軍二万の攻撃を受け、畑谷城は落城し光清は自刃した。城の東の山麓には大きな空堀と土塁が、西側には三重の空堀が現存し、城の見どころとなっている。
(2012/11/6 作成)