越中東部・新川郡の山中に築かれた山城で、築城は南北朝時代の14世紀前半と思われる。背後には松倉金山を控え、その金山の管理・護衛の役も担っていた。
戦国時代には越中守護代である椎名家が城主となり、神保家と越中国を二分した争いを繰り広げた。椎名家は越後の上杉家と結んでいたが、永禄11年(1568)に上杉家を離反し武田家と結んだ。その結果、上杉謙信の侵攻を招き、松倉城は落城した。謙信は家臣の河田長親を松倉城主とした。
天正10年(1582)には織田信長軍が松倉城に迫るが、本能寺の変により信長軍は撤退した。その翌年には佐々成政が松倉城を攻撃し、落城した。のちに佐々成政が勢力を失うと、代わって前田利家の領地となった。その後慶長年間に廃城になったと思われる。
越中東部・新川郡の山中に築かれた山城で、築城は南北朝時代の14世紀前半と思われる。背後には松倉金山を控え、その金山の管理・護衛の役も担っていた。戦国時代には越中守護代である椎名家が城主となり、神保家と越中国を二分した争いを繰り広げた。慶長年間に廃城になったと思われる。
(2012/5/5 作成)