日本百名城。越後守護代・長尾為景は春日山城に本拠を置いた。為景の子・晴景と上杉謙信、さらに謙信の養子・景勝も本拠とした。城は頚城平野の西北に位置し、北陸の街道を押さえる要所に位置する。山頂部分は山城、山麓は総構えになっている。
徳川家康の六男・松平忠輝が築いた城。忠輝の舅であった伊達政宗が責任者を務めた。天下普請で築城され、竣工までの期間は4ヶ月と伝わる。石垣は用いられず土塁のみで、天守も建てられず、御三階が城のシンボルとしてそびえていた。
日本百名城。戦国時代末期に新発田を治めていた新発田重家は越後国主・上杉景勝に対し謀反を起こし、数年に渡って戦うがついに敗死した。間もなく上杉氏は会津へ転封され、かわりに溝口秀勝が越後蒲原郡に封じられ新発田城を拡張し幕末に至った。
地頭の本庄氏の拠点であり典型的な中世の山城。永禄11年には本庄繁長は上杉謙信に対して反旗を翻し、城は大軍に囲まれるが陥落しなかった。のち村上頼勝、堀氏、松平氏により拡張され、現在見る石垣造りの城となった。
柿崎城は越後上杉家の重臣・柿崎家の居城である。特に有名なのが柿崎景家で、上杉謙信の重臣であり、川中島の戦いで先方として活躍する一方、相模北条家との外交を担うなど文武両面で活躍したと伝わる。柿崎家の菩提寺である楞巌寺に柿崎城城門と伝えられる門が移築されている。
北条城は鎌倉幕府の幕臣・大江広元の子孫・毛利時元が築いた城である。毛利氏は後に北条氏と改姓し、戦国時代には越後上杉家の家臣として活躍した。北条家の当主・高広は上杉家の関東進出の先鋒として上野・厩橋城城主を務めた。
越後国の関東国境付近に位置する上田庄の中心の城。戦国時代に当地を支配した長尾房長により本格的な築城が行われ、その子・長尾政景の時代には越後国主となった長尾景虎(上杉謙信)の支配下に入った。御館の乱の際には坂戸城近辺は北条氏の侵攻を受けたが、間もなく北条軍は撤退した。慶長三年(1598)には堀直寄が城主となり、一部石垣造りに改められた。慶長15年(1610)に堀直寄が信濃飯山に移ると廃城となった。
元和2年(1616)に堀直寄によって築かれた城。堀家のあとは牧野家が入り、幕末まで続いた。戊辰戦争の際には牧野家は幕府側の奥羽越列藩同盟に加盟し、ガトリング砲を武装するなどして新政府側と戦うが敗北し、長岡城は焼失した。現在長岡城の跡地は完全に市街地化され、JR長岡駅前に石碑が建つのが唯一の城の名残である。
元与板城は建武年間に新田義顕の一族・籠沢入道が築いたのが始まりと伝わる。天文15年頃に上杉謙信の重臣・直江景綱が城主となった。その後天正年間に与板城が築かれ、直江信綱、直江兼続が居城とした。寛永11年(1634)に長岡藩の支藩として与板藩が成立する。この時設けられたのが与板陣屋である。
室町時代には越後守護代・長尾家の家臣・本庄家が城主をつとめた。天文12年(1543)には城主の本庄実乃は長尾景虎(のちの上杉謙信)を城に迎え入れ、やがて家督を継ぎ越後守護代となった。慶長3年(1598)に上杉家が越後へ転封されると当地には堀秀治が入封した。しかし慶長15年(1610)に堀家が改易されると廃城となった。
三条城の始まりは平安時代と伝わり、室町時代には守護代・長尾家の支配下にあった。戦国時代となり上杉家の家臣である山吉豊守・神余親綱・甘粕景持らが城主を務めた。慶長3年(1598)に上杉家が会津に転封されると、代わって越後に入った堀家の重臣・堀直清が城主となった。現在は本成寺に三条城の城門と伝わる門が移築されている。
当地には寛永16年(1639)に村上藩主・堀直竒の次男・直時が蒲原郡に分封され、その後正保元年(1644年)に堀直吉によって陣屋が築かれたのが始まりである。その後、嘉永三年(1850年)に堀直央が藩主の際に城主郭に昇格し、陣屋に改修が加えられ村松城となった。現在城跡は公園として整備されている。
文和元年に大見盛家が当地に封じられた際に水原城が築かれた。以降水原氏に改名し、戦国時代には水原親憲は上杉謙信・景勝の家臣として活躍するが、慶長三年(1598)の会津転封に従い城は廃城された。その後、当地は良質な米が大量に収穫されたことから江戸幕府の天領となり、幕府はその天領を支配するため、水原代官所を設けた。
江上館は奥山荘の地頭・中条家の居館跡で、建久三年(1192)に和田氏が当地の地頭に任じられ、その支配の拠点として築いたものである。あくまでも江上館は平地に位置する平時の居館であり、戦時には近隣の鳥坂城を用いる構えであった。
当地の豪族・色部氏の本拠城。平地には平時の居館を、後背の山には戦時の城が設けられていた。戦国時代には色部氏は上杉氏の家臣として活躍した。慶長三年(1598)に上杉氏が会津へ転封されると、色部氏もその転封に従ったため、平林城は廃城となった。