元の城名は北ノ庄城と呼ばれ、織田信長の家臣・柴田勝家が北陸方面の経営の本拠地として築いたもの。関ヶ原合戦後には、徳川家康の子・結城秀康が当地に封じられ、城を大幅に拡張した。寛永元年(1624)には城名が福井城と改められた。
織田信長は北陸地方を手に入れると、越前国を柴田勝家に与え北陸方面の経営を任せ、勝家はその本拠地として北ノ庄城を築いた。上がった天守は9層もあったと伝わる。本能寺の変によって信長が戦死すると、勝家は羽柴秀吉との決戦に敗北。北ノ庄城に籠り、妻で信長の妹・お市の方とともに自害した。
天守の現存する城。日本百名城。 福井県坂井市にある城。1576年に柴田勝豊(柴田勝家の甥)が築城した平山城。二重三層の天守は日本最古のものとも言われる。壁は下見板張であり、また屋根瓦は越前地方特有の笏谷石でできている。
日本百名城。 一乗谷川沿いの谷に開けた土地にある。越前国を支配した朝倉氏の本拠地として繁栄した。 応仁の乱で京都が荒れると、多くの人が一乗谷へ逃げてきたため、京文化が栄えた。近年は発掘や町並の復元、庭園の整備などが行われている。
織田信長は越前の戦国時代・朝倉氏を滅ぼすと、大野郡を家臣・金森長近に与え、長近が越前大野城を築いた。江戸時代初頭には福井の結城秀康(家康の子)の支城となった。天和2年に土井氏が封じられて以降、幕末まで土井氏が代々藩主を務めた。
越前と近江の国境にある内中尾山城に築かれた城。賤ヶ岳の戦いで柴田勝家が本陣を置いた城で、縄張りは特に南方に対して、馬出郭や腰郭、複数の連続する虎口などを用いて厳重な守りを見せる。賤ヶ岳の戦い以降城は使われていないため、現在みられる城の姿は、合戦当時のものがそのまま残る貴重なものである。また、城は綺麗に整備され遺構が非常に分かりやすい。
関ヶ原合戦で石田三成の盟友として徳川家康と戦った大谷吉継の居城。築城は天正11年(1583)で蜂屋頼隆によるもの。現在は市街地化され遺構はほとんど残らないが、移築建築が幾つか残る。