赤穂城は浅野長直が寛文元年(1661)までの13年間で築いた城であり、国内の戦乱が収まってから築かれた珍しい城である。城の縄張には、当時の高名な甲州流軍学者である山鹿素行の助言があった。城は海に面しており、船で直接乗り入れるような城門も設けられた。城内には川から取水した水を配する上水道が設けられ、日本三大上水道に数えられる。
元禄14年(1701)には藩主の浅野長矩(浅野内匠頭として知られる)が江戸城で吉良上野介義央に対する刃傷沙汰を起こし、藩は改易、長矩は切腹処分となった。その後、赤穂藩の浪士が吉良上野介を討ち果たした話は、忠臣蔵として有名である。 その後、永井家一代、森家十二代が城主となり、明治維新を迎えた。
赤穂城には大きな二つの庭園(本丸庭園、二の丸庭園)があるのが特徴で、近年発掘が行われ、その成果に基づいた復元も進められている。
日本百名城。浅野長直が寛文元年(1661)に築いた城であり、国内の戦乱が収まってから築かれた珍しい城。城の縄張には、当時の高名な軍学者である山鹿素行の助言があった。城は海に面しており、船で直接乗り入れるような城門も設けられた。
(2007/7/26 作成、2012/12/22 更新)