天草は関ヶ原合戦後に肥前唐津の寺沢広高の領地となったが、天草は唐津からは飛び地であった。そこで支配の拠点となる城が必要となり、築かれた城が富岡城である。
寺沢家二代・堅高の代に島原の乱が発生し、富岡城は一揆軍の攻撃を受けるが落城しなかった。このため一揆軍は島原に渡り、原城に籠城することになる。
乱の収束後、寺沢家は乱の責任を問われ天草を没収され、代わりに山崎家治が封じられ領内を立て直した。また城を改修して外国からの攻撃にも備えた。その後天草は天領となり、代官の鈴木重成も復興に尽力した。戸田氏の時代に城は破却されるが、山麓に代官所が置かれ藩政が行われた。
天草は関ヶ原合戦後に肥前唐津の寺沢広高の領地となり、支配の拠点となる城として富岡城が築かれた。寺沢家二代・堅高の代に島原の乱が発生し、一揆軍の攻撃を受けるが落城しなかった。乱の収束後、山崎家治が封じられ領内を立て直した。
(2008/9/27 作成)