日本百名城。徳川御三家の城として知られる。元々は馬場氏、江戸氏、佐竹氏の城であったが、佐竹氏は関ヶ原合戦後に出羽に転封となり、代わって家康の五男・武田信吉、十男・頼宣、次いで十一男・頼房が入った。この頼房が水戸徳川家の始祖である。
笠間時朝が築いたのが始まりと言われる。天正十八年の秀吉の関東征伐時に笠間氏は北条氏と結んだため改易された。関ヶ原合戦後には松平康重が城主となり、その後牧野氏が入り幕末を迎えた。山頂部分は石垣造りであり現在でも遺構が残る。
城下町全体が水堀で囲まれた総構えの平城。永享年間に若泉三郎が築城し、その後信太氏、菅谷氏が城主を務めた。菅谷氏は主家の小田氏と共に北条氏と結んで豊臣秀吉に対抗したため改易された。関東に家康が入封すると、土浦は結城秀康領となった。
築城時期には諸説あるが、水戸の江戸氏の持ち城であった。天正十八年の秀吉の関東征伐の際に江戸氏は北条氏と結んだため、秀吉側の佐竹氏の侵攻を受け落城した。土で高く塁を築き深く堀を廻らす構造で、城内はさながら迷路のようである。
佐竹一族の額田氏が建長年間に築いたのが始まり。やがて額田氏は佐竹氏と敵対し佐竹氏によって滅ぼされた。その後、額田城には佐竹氏家臣の小野崎氏が入り城主を務めた。戦国時代末期には小野崎昭通が城主で佐竹家の家臣であったが、伊達政宗に通じ佐竹氏に攻められ敗北、奥州へ落ち延びていった。城にはかつては4つの曲輪があり周囲は沼に囲まれ固い守りを誇った。
真壁家の居城で、鎌倉時代には築城されていたとの事である。真壁家は戦国時代には常陸の戦国大名・佐竹家の傘下に入り、当主の真壁氏幹は剣術に優れ、またその武勇は「鬼真壁」の異名を取り敵から恐れられた。城は平城で、今でもいくつもの曲輪と土塁が残る。また、背後の山には詰の城があった。また、近隣の雨引観音には真壁城城門が移築され現存する。
鎌倉時代から戦国時代にかけて常陸国南部に勢力を張った小田家の居城。戦国時代には結城家、佐竹家、上杉家などの攻撃を受け、何度か落城の憂き目を見た。慶長五年(1600)には佐竹家家臣の小場義成が城主となるが、関ヶ原合戦の戦後処理で佐竹家が出羽へ転封されると、小田城は廃城された。小田城は平城で、現在でもほぼ正方形の主郭を中心に東曲輪などが残る。
大掾氏が正平年間(1346~1379)に築いた城。当地は常陸国衙が置かれる重要な土地であった。天正十九年(1590)に豊臣秀吉による北条氏討伐が行われた際、大掾氏は北条方に付いたため、豊臣方の佐竹氏の攻撃を受け落城した。元禄十三年(1700)に水戸藩主・徳川頼房の五男・松平頼隆が府中藩を立藩し、当地に陣屋を開いた。現在は陣屋門と土塁の一部が残る。
霞ヶ浦南側の台地上にある城。江戸崎城を本拠とする土岐原家の城で、永正三年には家臣の近藤利勝が城主となった。土岐原家は北隣の小田家と争ったが、佐竹家の南下に際しては小田家と結び佐竹家に対抗した。天正11年には木原城は佐竹義重の攻撃を受けた。土岐原家は北条家と結び佐竹家と戦ったが、豊臣秀吉による北条氏討伐が行われると佐竹家の攻撃を受け開城した。
当地の豪族であった岡見氏によって天文年間後半(1550年頃)築かれた城。岡見氏は相模の北条氏の支配下に入り、隣接する多賀谷氏・佐竹氏らと戦った。天正18年(1590)に豊臣秀吉によって北条氏が滅ぼされると、牛久城は開城した。その後、由良国繁が城主となったが、元和9年(1623)に廃城となった。
武田氏館は源義清が平安時代末期に構えた館の跡で、義清は当地の地名である武田を名乗った。義清は近隣勢力との争いの中での行き過ぎた行為を咎められ甲斐国に配流され甲斐武田氏の祖となった。このため、ここ武田氏館が甲斐武田氏のゆかりの地となる。現在、当時の絵巻物などを参考に建物が復元されている。