米子城 | 日本の城写真集

米子城 | 日本の城写真集

米子城

伯耆国鳥取県 / 収録写真枚数:146枚

米子城は伯耆の大名・山名氏が築いた城である。大永4年(1524)には尼子氏が城を落とし、伯耆は尼子氏が支配した。その後毛利氏が勢力を伸ばすと米子城も毛利氏に属し、天正19年(1591)に毛利氏家臣の吉川元春・広家らが米子城を整備拡張し当地の支配の拠点城とした。これは時代背景として、当時は豊臣秀吉による朝鮮出兵を控えた時期であり、海に面した城を作り水軍を城下に配したかったものと考えられる。
関ヶ原合戦で西軍の毛利氏が敗北すると、東軍の中村一忠が伯耆国十八万石を領し米子城に入り、慶長七年(1602)に城は完成した。城には天守が2つ(天守と四重櫓の副天守)が上がっていたと言う。
慶長14年(1609)には中村一忠は死去し、代わって加藤貞泰が入り、元和3年(1617年)には貞泰が大洲へ転封となり、米子は姫路から転封された鳥取藩・池田光政の支配下に入った。米子城主は池田光政の筆頭家老・池田由之、次いで子の由成が務めた。光政は寛永九年(1632)に再度姫路へ転ずると、鳥取藩は池田光仲が藩主となり、米子城主には家臣の荒尾氏が任じられた。
現在城跡には昭和五十七年から五十九年に復元された石垣が残るだけだが、その石垣は非常に大規模で見ごたえがある。

旧伯耆国・鳥取県米子市にある城。伯耆の戦国大名・山名氏が築いた城で、尼子氏、次いで毛利氏が城を支配した。関ヶ原合戦で西軍の毛利氏が敗北すると、東軍の中村一忠が伯耆国十八万石を領し米子城に入り、慶長七年(1602)に城は完成した。城には天守が2つ(天守と四重櫓の副天守)が上がっていたと言う。

(2007/5/1 作成、2013/10/12 更新、2018/9/25更新)

米子城の写真撮影スポット

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米子城付近の地図

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