日本百名城。山名氏の支配の後、毛利家の支配を受け吉川経家が城主となるが、羽柴秀吉が来襲し、兵糧攻めの末落城、吉川経家は自決した。江戸時代は池田氏が入城し、明治維新まで続いた。城は、山城の部分と、近世に整備された山麓の部分からなる。
播磨と但馬を結ぶ街道沿いに位置する城。当時の豪族である矢部氏によって築かれたのが始まりと言われる。織田信長の勢力が当地に及ぶとその支配下に入った。関ヶ原合戦後には山崎家盛が入り若桜藩を立藩したが、山崎家は転封となり廃城された。
鹿野城は別名「王舎城」と呼ばれるが、これは城主・亀井茲矩の仏教思想に基づくものと言われる。また、茲矩は幕府公認でシャム(タイ)などと海外貿易を行った。櫓には朝鮮櫓、オランダ櫓などの名前が付けられた事からも茲矩の海外志向が覗われる。
鳥取城の南方、若桜鬼ヶ城の西方に位置する城。戦国時代に城を支配したのは山名氏だが、天正八年(1580)には景石城は羽柴秀吉の手に落ち、秀吉の家臣・磯部豊直が城主となり、秀吉の鳥取城攻めの拠点として機能したものと思われる。慶長五年(1600)の関ヶ原合戦後、若桜鬼ヶ城の城主・山崎氏の家臣が入ったが、慶長20年(1615)に一国一城令が発令されると廃城された。