日本百名城。甲斐の戦国大名・武田氏の本拠地で、武田信虎が永正16年に築いた。館は平地に築かれ、背後の山に要害山城を築き詰めの城とした。その後、信玄、勝頼も当館を本拠としたが、勝頼は防御力の低い躑躅ヶ崎館から新府城へ移転した
日本百名城。築城を開始したのは豊臣秀吉の甥・秀勝で、加藤光泰、浅野長政・幸長により築城された。慶長6年(1601)には平岩親吉、次いで徳川義直(家康の9男)、宝永2年(1705)に柳沢吉保が封じられた。以降は幕府直轄の城となった。
武田勝頼が躑躅ヶ崎館に代わる甲斐の新しい首都として築いた城。城は塩川と釜無川に挟まれた七里岩と呼ばれる巨大かつ急峻な台地上に築かれ、難攻不落の地にあった。首都機能を躑躅ヶ崎から移転した数か月後に織田・徳川の武田領侵攻が本格化し、勝頼は自ら築城間もなくの新府城を焼き払い城を退去した。或いは新府城はこの時未完であったともいわれる。