躑躅ヶ崎館 | 日本の城写真集

躑躅ヶ崎館 | 日本の城写真集

躑躅ヶ崎館

甲斐国山梨県 / 収録写真枚数:113枚

【城の歴史】
躑躅ヶ崎館は甲斐の戦国大名・武田氏の本拠地である。その始まりは、武田信虎が甲斐国内統一を目指す拠点として永正16年(1519)に築いたのが始まりである。信虎は一族家臣を城下に住まわせ集権的な体制を構築した。これが後に信虎の子・晴信が戦国大名として大きく羽ばたく基盤になったとの指摘がある。
当初は館は単郭であったが、晴信の時代に子・義信のために西曲輪を増設するなど、拡張が続いた。
武田氏は勝頼の時代になると織田信長の圧力を受け、平地にあり防御力の低い躑躅ヶ崎館から新府城へ首都機能を移転した。
しかし間もなく武田氏は滅亡し、織田氏、ついで徳川氏が整備し、甲斐支配の拠点とした。この頃に、城内で見られる石垣が築かれたものと考えられる。その後、豊臣政権下で甲府城が築城されると、躑躅ヶ崎館は廃され、江戸時代には古城・旧府城などと呼ばれた。

【城の立地】
館は甲府盆地の北端の扇状地に築かれ、信州往還、駿州往還、中道往還を抑える要衝であった。
また背後の山に要害山城を築き詰の城とし、西に湯村山城、南に一条小山(甲府城がある山)により館の防御を固めた。

【城の見どころ:普請(土木工事)編】
城の縄張りの基本は、将軍邸である花の御所(室町第)と同じ方形居館であった主郭を元に、周囲にいくつかの曲輪が拡張されたもので、基本的には土造りの城である。堀や切岸の深さは武田家の本拠城にふさわしい高さを誇り、また馬出を用いる縄張りは、平地にある館を守る工夫である。
また、城内に見られる石垣は武田家滅亡後に織田、徳川、豊臣の勢力が甲斐を支配した際に造られたものと理解されている。このように、現在見られる躑躅ヶ崎館は、武田氏時代の遺構と、武田氏以降の時代の遺構の両方を見ることができるのである。

【城の見どころ:作事(建築)編】
当時の建物は残っていない。

【主な参考文献等】
現地看板
甲府城鉄門内の躑躅ヶ崎館に関する展示
動画 こうふ開府500年記念番組【甲府を作った男・武田信虎 かけがえのない甲斐国】、UTYテレビ山梨公式チャンネル、2019/3/28、https://www.youtube.com/watch?v=EZQalHX4hHA
書籍 中井均・春風亭昇太 齋藤慎一著 『歴史家と噺家の城歩き』 高志書院 2018/12/5
書籍 山下孝司・平山優編集 『甲信越の名城を歩く 山梨編』 吉川弘文館 2016/9/23

日本百名城。甲斐の戦国大名・武田氏の本拠地で、武田信虎が永正16年に築いた。館は平地に築かれ、背後の山に要害山城を築き詰めの城とした。その後、信玄、勝頼も当館を本拠としたが、勝頼は防御力の低い躑躅ヶ崎館から新府城へ移転した

(2008/11/19 作成、 2022/7/2 更新、2024/4/27 更新)

躑躅ヶ崎館の写真撮影スポット

当サイト管理人(けいすけ)が全写真を撮影。躑躅ヶ崎館の人気の撮影スポットをご紹介します。

躑躅ヶ崎館付近の地図

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