久留里城は上総を支配していた武田氏の一族・真里谷氏が支配していた。しかし天文年間(1532~55)の後半に一族での内紛が発生し、その間に安房の里見義堯の侵攻を許し真里谷氏は滅亡した。これにより久留里城は里見氏の支配下に入った。義堯は本拠を久留里城に移し、房総半島制圧のための拠点とした。
義堯は永禄7年(1564)に国府台の戦いで相模北条氏に敗北を喫し、久留里城を手放したが、まもなく奪還した。里見氏は義堯の死後は義頼が後を継ぎ、本拠を安房岡本城に移した。
天正18年(1590)の秀吉の関東征伐の際には、里見氏は秀吉から不手際を責められ、上総国を没収された。かわって久留里城には関東に封じられた徳川家康の家臣・大須賀忠政、関ヶ原合戦後には土屋忠直が入った。
土屋氏は延宝7年(1679)に改易され、久留里城は廃城となった。しかし寛保2年(1742)に黒田氏が久留里藩主に任じられ城が再築され、幕末に至った。
久留里城は真里谷氏が支配していたが里見義堯の侵攻を許し真里谷氏は滅亡した。義堯は本拠を久留里城に移し、房総半島制圧のための拠点とした。天正18年には関東に封じられた徳川家康の家臣・大須賀忠政、関ヶ原合戦後には土屋忠直が入った。
(2009/3/11 作成)