大多喜城は戦国時代には上総武田氏の支配下にあったが、天文年間に安房の里見氏に征服された。大多喜城主には里見氏の重臣・正木氏が任じられ、正木時茂、信茂、憲時、時堯が歴代の城主をつとめた。
天正18年(1590)の豊臣秀吉による関東征伐後には、関東に封じられた徳川家康の城となった。家康は城主に本多忠勝を任じ、安房の里見氏に対する押さえとした。
関ヶ原合戦後には本多忠勝は伊勢桑名に転封となり、かわりに大多喜城には忠勝の次男・忠朝が入った。忠朝が城主の時代にスペイン領フィリピン臨時総督であったドン・ロドリゴが房総半島沖で遭難・漂着し、その際に著した「ドン・ロドリゴ日本見聞録」に大多喜城の様子が記されている。
本多氏ののち、阿部氏、松平氏などが城主をつとめ幕末に至った。
戦国時代には上総武田氏の支配下にあったが、天文年間に安房の里見氏に征服され、重臣の正木氏が城主に任じられた。天正18年(1590)の豊臣秀吉による関東征伐後には、関東に封じられた徳川家康の城となり、本多忠勝が城主となった。
(2009/3/11 作成)