日本百名城。紀伊を支配下に置いた豊臣秀吉の弟・秀長が天正13年(1585)に築いた城。関ヶ原合戦後には浅野幸長が入り城を拡張した。さらに元和五年(1619)には浅野家が広島へ転封となり、かわりに駿府城から家康の十男・頼宣が城主となった。これが徳川御三家の紀州藩の始まりである。太平洋戦争の空襲により天守等を焼失した。現在の天守は昭和33年に再建されたもの。
熊野川が熊野灘にそそぐ河口付近に築かれた城。城の脇には熊野川が流れ、断崖となっているため堅固な守りを誇る。山頂部の本丸には多くの石垣が用いられ、現在もその姿を見ることができる。さらに、熊野川沿いには、水の手がある。慶長六年から築城が開始され、一時一国一城令で廃城となるが、その後再築が開始し、寛永十年(1633)に城は完成した。
紀伊国の最東かつ山間の地方である北山地方にある城。一説には、天正十六年(1588)の豊臣秀長による北山討伐後の築城と伝わり、藤堂高虎が当地を治めた。城の縄張りは、主郭を中心に、尾根上に東、西の郭を配置し、北郭で尾根を断っている。城の中心部には石垣が多用され、主郭の虎口は二重の枡形虎口で形成され、堅固な守りを誇る。整備の行き届いた見学しやすい城。
田辺城は会津川の河口付近に築かれた城である。この城は、関ヶ原合戦後に紀伊に入った浅野幸長の重臣・浅野氏重が築いた城で、慶長十一年(1606)に築城された。元和元年の一国一城令により城ではなく館の扱いとなったが、実質的には城であったと思われる。現在は城跡の市街地化に伴い殆どの遺構が失われたが、埋門型の水門跡が残る。