金山城は関東七名城に数えられ、文明元年(1469)に岩松家純によって築城されたのが始まりと言われる。その後、岩松氏の家臣であった由良氏が城を乗っ取り、代々由良氏の本拠となった。由良氏は、長尾氏、北条氏などに従い戦国時代を生き抜いた。天正18年(1590)に豊臣秀吉が北条氏を攻め滅ぼし、由良氏は常陸に転封され、金山城は廃城となった。
天文元年頃に山内上杉家家臣の沼田顕泰によって築かれた。戦国時代には越後上杉家・甲斐武田家・相模北条家に属するが、北条氏滅亡後は真田氏が支配した。初代城主真田信之は城を拡張し、慶長年間には五重の天守を建造した。
名胡桃城は天正七年(1579)頃に武田勝頼から北条氏の沼田城攻略を命じられた真田昌幸が築城した城。天正18年(1590)、北条氏家臣で沼田城代の猪俣邦憲が名胡桃城を攻略。これに怒った豊臣秀吉が北条氏を攻め滅亡させた。名胡桃城は戦国大名北条氏滅亡、そして秀吉による天下統一の進捗に大きく関与した。
武田三名城にも数えられる山城。武田氏滅亡の直前には、真田昌幸が武田勝頼に甲州から岩櫃城に退却するよう進言するが却下され、武田氏は滅亡したというエピソードがある。武田氏滅亡後は真田氏が支配したが、一国一城令により廃城となった。
利根川と吾妻川の合流点に築かれた城。築城は15世紀中頃に関東管領山内上杉家家臣・長尾景仲によるものと言われる。戦国時代は越後上杉家、武田家、北条家に属するが、その後徳川家家臣本田氏が城主となり、城を現在の姿に整備したと言われる。
日本百名城。 山内上杉家家臣の長野業政は侵略を試みる武田信玄に対抗し続けたが子の業盛の代に落城した。のちに徳川家康家臣の井伊直政が城主となったが高崎城に居城を移し廃城となった。深い空堀でいくつもの曲輪が隔てられる構造になっている。
鎌倉時代に和田氏が和田城を築いたのが始まりと言われる。慶長3年(1589)に井伊直政が居城を箕輪城から移し、高崎と名を改めた。江戸時代にはめまぐるしく城主が替わるが、最後は大河内氏十代の居城として明治維新を迎え廃城となった。
関東管領山内上杉氏の本拠地であったが、天文21年(1552)には相模北条氏が山内上杉氏に対する攻勢を強め、落城した。城の崖下には鮎川が流れており、天険の地である。また背後の山中には詰めの城が存在する。現在は土塁等が復元されている。
室町時代末期に赤井照光によって築城されたと伝えられるが、正確な記録は残っていない。戦国時代には越後長尾氏・相模北条氏などが支配したが、北条氏滅亡後は徳川家康家臣の榊原康政が城主となった。現在は三の丸の土橋門が復元されている。
小泉城は結城氏の一族である富岡氏が城主を務めた城で、富岡直光が延徳元年に築いたのが始まりと伝わる。富岡氏は上杉氏、のちに北条氏に属した。富岡氏が相模の北条氏に従っている時に豊臣秀吉の関東討伐があり、北条氏の滅亡に伴い富岡氏も改易された。城は平野部に位置するため、二重の濠と川で防御を固めている。現在は主郭部を中心に公園として整備されている。