大垣城 | 日本の城写真集

大垣城 | 日本の城写真集

大垣城

美濃国岐阜県 / 収録写真枚数:64枚

大垣城は牛屋河岸に建てられた平城で、天文4年(1535)に宮川安定によって築かれたのが始まりと伝わる。永禄2年(1559)には美濃三人衆の一人・氏家直元(卜全)が城主となり、城を拡張した。
天正13年(1585)に豊臣秀吉は一柳直末を城主に任じ、この時天守が築かれた。直末は天正18年(1590)の関東北条氏との戦いで戦死し、かわって伊藤祐盛が城主となった。祐盛は慶長4年(1599)に死去し、子の盛正が継いだ。
翌年の関ヶ原合戦では盛正は西軍につき、城を石田三成に提供した。三成は大垣城に西軍の拠点を置き戦況を見守るが、東軍が迫ると軍を大垣城から関ヶ原に移し、決戦を挑んだのである。大垣城には城将として福原長堯が配されたが、決戦で西軍が敗れると城は東軍の包囲を受け、籠城軍が相次いで東軍に内応し落城した。
関ヶ原合戦後には家康の重臣・石川家成の子である康通が封じられた。康通は父に先立って他界したため家成が再度藩主となり、さらに外孫の忠総が継いだ。大坂の陣で武功を挙げた忠総は元和2年(1616)に加増転封となり、松平氏、岡部氏、松平氏の順で藩主となった。寛永12年(1635)には戸田氏鉄が当地に封じられ、以降幕末まで戸田氏の支配が続いた。
天守は明治維新でも取り壊されることは無かったが、太平洋戦争時の空襲により焼失し、現在建つ天守は戦後の昭和34年に復興されたものである。

牛屋河岸に建てられた平城。天正13年(1585)に豊臣秀吉は一柳直末を城主に任じ、この時天守が築かれた。関ヶ原合戦時には石田三成は大垣城に西軍の拠点を置いた。天守は明治維新後も残ったが、太平洋戦争時の空襲により焼失した。

(2009/5/17 作成、2017/12/21 更新)

大垣城付近の地図

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