日本百名城。太田道灌が築いたのが始まりと言われる。その後北条氏の手に渡り、北条氏滅亡後は徳川家康が入った。江戸幕府開府後は幕府の首都となり、城が「天下普請」で拡張され日本一の規模の天守も上げられた。現在は皇居として使用される。
日本百名城。長禄元年に扇谷上杉氏家臣の太田道真・道灌父子が築いた。当時は河越と表記された。天文六年には相模の北条氏が川越城を攻略。豊臣秀吉の関東攻めで落城した。嘉永元年には本丸御殿が建造され、この御殿は現存する。
成田氏が築いたのが始まりと言われる。忍城は低湿地に囲まれ非常に攻めにくい城であった。豊臣秀吉の関東征伐の際には、石田三成が忍城を囲むが容易には落とせず、利根川の水を引いての水攻めを試みるが、水が逆流するなどし結局落城しなかった。
岩槻城の築城者は太田道灌説や成田説など諸説ある。戦国時代に入ると太田氏が支配したが、後に北条氏の支配下となる。その後豊臣秀吉の小田原征伐の際に攻撃を受け落城。江戸時代には江戸の北方の守りを固める城として重要視された。
日本百名城。 荒川と深沢川に挟まれた崖上の要害に位置する城。北条氏の勢力伸張に伴い、氏康は氏規を鉢形城の城主とし、北武蔵・上野方面を支配させた。豊臣秀吉の北条攻めの際に包囲を受け、篭城の末城兵の助命を条件に氏規は開城した。
城の縄張りは堅牢な枡形虎口や馬出、横矢掛かりで守られており16世紀後半の城の構造を持つ。しかし発掘の結果築城は1500年頃の築城という事が判明しており、築城年代が確定していない。この縄張りと発掘結果の矛盾は「杉山城問題」と呼ばれている。
菅谷城は鎌倉時代の御家人・畠山重忠が居住した館である。文治二年(1187)頃にはすでに居住しており、元久二年(1205)には二俣川合戦にこの居館から出発した記録が残る。室町時代から戦国時代にかけては、当地は扇谷上杉家、山内上杉家、北条家などが勢力を伸ばし、各勢力により城が拡張されたものと思われる。
武蔵国の関東平野外縁に位置する城で、槻川が湾曲した部分に築かれた城。築城者などははっきりしないが、16世紀前半~後半に築城されたものと思われる。小倉城には結晶片岩を用いた石積みが多用されているのが特徴で、この時期に築かれた関東の城としては珍しい。
吉見丘陵の先端に築かれた城で、往時は三方を湿地帯に囲まれた要害に位置する城であった。武蔵松山城をめぐっては、古河公方と扇谷・山内の両上杉氏、のちに相模北条氏・甲斐武田氏・越後上杉氏の間で激しい争奪戦が繰り広げられた。
日本百名城。関東を支配した北条氏が戦国時代末に築いた城。日常は山麓の御主殿で政務を行い、合戦時は山城部に籠城する事を想定した構造。天正18年(1590)に豊臣秀吉の関東征伐時に前田利家・上杉景勝の大軍に包囲され落城した。
武蔵の守護代・大石氏の居城で時の当主・定重が築いた。その後大石氏は相模の北条氏の支配下に入る。これにより北条氏照が大石氏の養子となり、氏照が滝山城主となった。氏照はより堅固な城の必要性を感じ、滝山城を廃し新たに八王子城を築いた。
武蔵・相模の国境である鶴見川沿いに築かれた城。当地は山内上杉家の領地であったが、のちに後北条家の支配下に入った。大永4年(1524)に北条氏尭が城主となるなど、北条家の関東支配の要地を占めた。現在城跡は第三京浜に分断されるが、整備は行き届いており、孟竹宗の竹林となっている。
早渕川沿いの高地に築かれた城。付近の小机城の支城の役割と果たした。史料に現れるのは平安時代末期で多田太郎が城主であったと伝わる。その後上杉家の支配を受け、のちに二重土塁の間に空堀をめぐらせる築城方法から北条家が改修を加えたものと思われる。城は西郭、中郭、東郭、北郭から成り、東郭が本丸に相当すると思われる。
品川台場は幕末に江戸幕府が築いた台場で、外国船襲来に備えるために江戸城からほど近くの品川沖に六基築かれた。台場には砲台が設けられ、大砲により外国船に攻撃を加える構想であった。築城はペリー来航の翌月の嘉永六年(1853)から開始され、翌年に完成した。現在は第三台場と第六台場が残る。