江戸城は、扇谷上杉家の家臣である太田道灌が長禄元年(1457)に築いたのが始まりと言われる。この頃の江戸城は今よりも相当小さい規模であった。
その後江戸城は相模の北条氏の手に渡り、北条氏の関東支配の拠点となった。当時から江戸は海運により相模・房総方面と、大河により関東平野北部方面との交通の便の良い立地であった。
北条氏が豊臣秀吉によって滅ぼされると、関東には徳川家康が転封された。家康は北条氏の本拠城であった小田原城ではなく、江戸城を本拠城とした。しかしこの時点では家康は秀吉の家臣であり、城を大幅に拡張する事は避けていた。
関ヶ原合戦後、江戸幕府が開かれてからは江戸城は幕府の首都となった。同時に天下普請による城の大幅な拡張に着手し、神田山を切り崩して平地とし、その土砂で日比谷入り江を埋め立てて城地を増やした。石垣に用いる巨石は伊豆半島から海路で運ばれ、城門の堅固な枡形石垣などが造られた。しかし城全体が石垣で囲われている訳ではなく、土塁も併用されている。これらの築城工事には全国の大名が動員され、「天下普請」によって築かれた
江戸城の天守は幕府の威厳を示すために日本一の規模を誇った。家康は豊臣家の大坂城よりも大きな天守を築き、秀忠はさらに大きな天守を建て、家光はさらにそれを再建した。しかし、明暦3年(1657)の明暦の大火(振袖火事)で焼失して以降、財政上の理由もあり再建されなかった。
城域は広大で、現在の隅田川、中央線沿いの神田川、赤坂・虎ノ門・新橋で囲まれる範囲までが外郭を構成した。また内郭は本丸、二の丸、三の丸、西の丸、北の丸などで構成される。西の丸は明治2年(1869)の遷都以降は皇居として使用され立ち入りができないが、それ以外の部分は東御苑、外苑、北の丸公園などとして開放されている。
日本百名城。太田道灌が築いたのが始まりと言われる。その後北条氏の手に渡り、北条氏滅亡後は徳川家康が入った。江戸幕府開府後は幕府の首都となり、城が「天下普請」で拡張され日本一の規模の天守も上げられた。現在は皇居として使用される。
(2009/10/18 作成)