荒川が秩父の山中から関東平野に出てすぐの右岸、荒川と深沢川に挟まれた崖上の要害に位置する城。また鎌倉街道・秩父往還を扼す要衝であった。
鉢形城は、文明八年(1476)に関東管領山内上杉氏の家臣・長尾景春が反乱を起こした際に築城されたと伝えられる。その後景春は扇谷上杉氏の家臣・太田道灌の攻撃を受け退去、山内上杉氏の支配下となった。
天文十五年(1546)に北条氏康が川越合戦に勝利すると、この地の有力な豪族であった天神山城主・藤田康邦は北条氏と提携するため、北条氏康の息子・氏規を養子として迎え入れた。氏康は氏規を鉢形城の城主とし、北武蔵・上野方面を支配させた。鉢形城はこの氏規の時代に現在の規模に拡張された。
天正十八年(1590)には豊臣秀吉の北条攻めが開始され、前田利家・上杉景勝らの軍勢の包囲を受けた。約1ヶ月間の篭城の末、城兵の助命を条件に氏規は開城した。
日本百名城。 荒川と深沢川に挟まれた崖上の要害に位置する城。北条氏の勢力伸張に伴い、氏康は氏規を鉢形城の城主とし、北武蔵・上野方面を支配させた。豊臣秀吉の北条攻めの際に包囲を受け、篭城の末城兵の助命を条件に氏規は開城した。
(2008/3/4 作成)