九戸城 | 日本の城写真集

九戸城 | 日本の城写真集

九戸城

陸奥国(陸奥)岩手県 / 収録写真枚数:33枚

【城の歴史】
九戸城は南部氏一族の九戸氏の居城で、明応年間(1492~1501)頃までに築城されたと考えられる。南部氏は、三戸氏、九戸氏、八戸氏ら南部一族が連合して形成する勢力で、三戸氏が一族を束ねる位置にありながらも、各氏の間に明確な支配関係は無かった。
1580年頃、当時の城主・九戸政実は、三戸南部氏の後継者をめぐり、三戸氏当初となる南部信直と対立した。また中央で豊臣秀吉の政権が成立すると、南部信直は秀吉に従うが、その際に九戸氏は三戸氏の家臣に位置付けられた。これらの事から九戸政実は豊臣秀吉・信直と敵対する。天正19年(1591)に徳川家康や奥州の諸大名からなる奥州仕置軍の包囲を受け、これに対し善戦するが助命を条件に開城。ところがこれが秀吉側の謀略で、九戸政実をはじめ城内の兵士・庶民も全員処刑された。
戦後、南部信直は九戸城を福岡城と名を改め、居城を福岡城に変えた。普請は豊臣家臣の浅野長吉の指揮のもと会津の大名・蒲生氏郷が担った。征服直後の敵対勢力の本拠に自らの本拠を移す狙いは何であっただろうか。江戸時代に入り寛永13年(1636)に南部氏の本拠が盛岡城に移ると、この城は廃城となった。

【城の立地】
城は南部領を南北に貫く馬淵川沿いに位置する。九戸城から下流に向かうと、三戸城、八戸の根城を経て太平洋に至る馬淵川は大動脈であり、九戸城はその交通を抑える重要な位置に建てられた。城の西側はその馬淵川が流れ、北は白鳥川、東は猫淵川と三方を川に囲まれた天険の地であった。

【城の見どころ:普請(土木工事)編】
城の中心部である本丸・二の丸は豊臣政権による普請が行われ、石垣づくりの城となっている。外郭部分は中世の九戸氏が城主であった時代の九戸城の構造が残っていると考えられている。

【城の見どころ:作事(建築)編】
現在往時の建物は残らないが、発掘調査で九戸氏時代のL字型の建物跡や大きな竪穴式建物跡など南部氏の城に共通する遺構が見つかった。

【主な参考文献等】
現地看板
書籍 熊谷隆次著 『戦国の北奥羽南部氏』 デーリー東北新聞社 2021/6/16

明応年間(1492~1501)頃までに築城され、九戸氏の居城となる。天正19年(1591)、城主・九戸政実は秀吉の奥州仕置軍に対抗するが、謀略により全員処刑された。戦後、南部信直は福岡城と改め居城とし、盛岡城に移ると廃城となった。

(2007/10/12 作成、 2022/4/30 更新)

九戸城の写真撮影スポット

当サイト管理人(けいすけ)が全写真を撮影。九戸城の人気の撮影スポットをご紹介します。

九戸城付近の地図

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